「花見に行かねぇ?」
回診時間。いつものように血圧を測り、脈を取って、体温を確認し、変わり映えのない
問診を一通り済ませて。
「ちゃんとメシ、食った?」
そう問うのと同じ調子で、主治医の木村が冒頭の質問を投げ掛けて来、吾郎は寸時、
言葉を失い、まじまじとその端正な顔立ちを見詰めた。
そんな吾郎の視線を真っ直ぐに受け止めて、木村は楽しそうに少し目を細め、
「ん?」
と軽く首を傾げる。
「・・・・・別に」
聞き間違いだったのかも知れない、と吾郎は木村から視線を外し、可動式のテーブルを
自分の方に引き寄せて、いつものようにパソコンの電源をオンにした。
「こら!!人の話、シカトこいてんじゃねぇよっ!!」
マウスをクリックしている手を押さえられて、吾郎は不本意だと言わんばかりに、再び、
木村に視線を戻す。
「何?何の話?」
「・・・・・おちょくってんのか、お前は?」
「だって・・・何か会話してたっけ?俺、木村くんと」
「だからっ!!俺がお誘いしてんだろうが?!一緒にお花見に行きませんかって!!」
「・・・・・・・」
聞き間違いではなかったのか、と。
漸く、その事を改めて認識し直して。
「・・・・・3月に外出したいって言った時には偉く大騒動だった気がするけど?今回は
嫌に簡単に切り出すんだね?」
明らかに訝った視線を真正面から投げつけて来る吾郎に、軽く口端を持ち上げた笑みを
返して。
「ちょっとたまには強硬手段?庇うだけじゃダメかもな、って」
どう解釈しても論理的には聞こえない木村のそんな説明に、吾郎ははっきり溜息をつき。
けれど、その事を問い質し、論理的な説明を求めて、また、想像もしないような臨床
データをつきつけられるのも、正直、面白くない気がして。
「この時期、お花見って・・・・桜?」
木村がそう言い出したからには、もう、自分が何をどう言っても無駄な気がする。
諦めにも似た思いで、吾郎はもう一度、溜息を吐いた。
「もち。花見って言やぁ、やっぱ、桜、だろ?」
「・・・・・やめとく。興味ないし。人混みの中に出掛けて行く気もないし・・・・
それに・・・・」
吾郎は一瞬、逸らした視線を木村に戻し、何かを口にしようとする仕草を見せながらも、
躊躇うようにまた、瞼を伏せ。
「桜は・・・・好きじゃない」
細く弱い息を吐くように、紡がれた吾郎のセリフに、木村は胸を衝かれる痛みを感じる。
3月半ば。
吾郎の方から外出許可が欲しいと申し入れて来た時には、正直、自分の聴覚が勝手に
作り上げた幻聴でも聞いているのか、と、一瞬、自分の耳を疑ったほどで。
けれど、どうやら吾郎は本気だったらしく。
吾郎次第だと言い聞かせて。
吾郎が本気でそうしたいと願って努力するのなら、不可能な事ではないのだ、と。
そうして、現実に吾郎は、それまでの態度がまるで嘘のように、意外なほどマジメに
木村の言いつけを守って、その日を迎えるための努力を惜しまなかった。
もちろん、木村にしても、そのための自分の出来得る限りの精一杯の助力を惜しまなかった
けれど。
そうした二人の努力の甲斐あって、当日、多少の発熱はあったものの、どうにか無事に
その日を乗り切る事も出来て。
その後、吾郎がその事で特に体調を崩すと言う事もなく。
けれど・・・・・・
その日を境に吾郎は、また、以前と同じく、病室の窓を硬く閉ざして、全く、外を見ようと
しなくなってしまっていた。
そして、その原因も木村にはおおよそ、見当がついていて。
病室の窓を開けると中庭を隔てた少し向こうに、大きな桜の木が誇らしげに、その初々しい
色合いの花を咲き乱れさせている様がとても美しく、病室内に居ながら、その気になり
さえすれば花見も可能なほどなのだが、けれど。
その桜は・・・・・
木村と吾郎が初めて出会った時の、あの桜の木に違いなくて。
自分は意図してそうしたつもりはなかったけれど、記憶に留めて置きたくない、と幼い
吾郎が願ってしまったほどに深く吾郎を傷つけてしまった例の事件の発端になった場所。
そうして、今も吾郎は自分ですら意識していない心の奥深くで、その時の自分の罪に
苦しんでいる。
いっその事、何もかも洗いざらいぶちまけて、本当の事を全て伝えて詫びれば、もしかしたら、
吾郎は今、囚われている罪悪感から逃れられる事は可能かも知れない、と。
けれど、そう出来ずにいるのは・・・・それほど深く傷ついてしまった吾郎が、その事を
知った時の反応を、正直、自分は畏れているのだ。
その事を知った吾郎が、自分を許しはしないかも知れない、と。
もう、こうして、吾郎が元気になるための、この限られた空間から外の世界へ羽ばたいて
行くための手助けを、自分がしてやれなくなるかも知れない、と言う恐れ。
吾郎が自分がこうしてここに居る事さえ、許しはしないだろう、という懸念は、確信に
近くて。
もし、そうなってしまったのだとしたら・・・・
木村は自分で自分が存在している意味を見失ってしまいそうで、怖くて。
いつまでも苦しみ続ける吾郎を、今、すぐにでも救ってやりたいと渇望する気持ちと、
その事を知った吾郎に断罪される恐れに、自分の中で相反する二つの心が激しくぶつかり
合うのを、自分でもどうする術も見出せずに。
けれど・・・・
ただ、手をこまねいて見ているだけでは、本当に自分が今、ここに居る意味が余りにも
なさ過ぎるから・・・・
どうにかして、他の方向からでも・・・・
諦めの悪い片恋中の男に近しい心境を味わいつつ、木村は必死に考えを巡らせた。
朝イチの吾郎のバイタルをカルテでチェックし、ここ2、3日は少し安定した数値を
記録しているのを確認して、病室を訪れた木村は、軽くドアにノックの音を響かせ。
けれど、その向こうからは何の返事もない。
眠っているのかと、そっとドアを開けて見ると、どうやら吾郎は熱心にパソコンの
ディスプレイを見入っているようで。音もなく室内に滑り込むようにして入り込んだ
木村に気付く気配すら見せない。
そんな吾郎の思いも掛けない集中力に、驚きと同程度の呆れを感じつつ、ふと、木村の
頭の中で悪戯心が擡げる。
そのまま、足音を忍ばせ、そっとその背後に忍び寄り、相変わらず、訳の分からない論文を
読み耽っている吾郎の脇腹に、すー・・・・っと指を滑らせた。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ?!」
悲鳴を上げてマウスを取り落とした吾郎の、余りに大袈裟なリアクションに木村は一瞬、
笑っていいのかどうか、悩んだほどで。
「ちょ?!何もそんな、ビビんなくてもいいだろっ?!」
脅かしたはずの自分が、逆に脅かされたような心境になってしまい、つい、頭ごなしに
吾郎をどやしつけてしまった。
「木村くんっ?!何すんだよ、いきなりっ?!ビックリするじゃんよっ?!何なんだよ、
一体?!なんで?!なんで、ノックもなしに勝手に人の部屋、入って来て、しかも、そんな事、
やってんのっ?!酷いじゃないかっ?!」
吾郎もまた、完全にキレているらしく、語調を荒くして、ちょっと目に涙を溜めている。
「んなにビビるなんて思わねぇだろ、普通?!」
「驚くに決まってるでしょっ?!自分しか居ないはずの室内で、不意に誰かに触られたり
なんかしたら、誰だって驚くよっ!!」
「お前の場合、驚き方が尋常じゃねぇだろっ!!」
「うるさいなっ!!人の驚き方に一々、ケチつけないでよ!!」
そこまで喚いた吾郎が、僅かに眉根を寄せ、短く息を吸い込んだのを、木村が見逃すはずも
ない。
「・・・・悪かった」
低く詫びて、木村はすかさず吾郎の背中で左手をさすり、右手で手首の脈を測る。
暫く、そうしている間に乱れがちだった吾郎の脈は、間もなく落ち着きを見せ始めた。
無言のまま、そんな吾郎を静かにベッドに横たわらせ。
突き刺さって来る吾郎の不審に満ち満ちた視線に苦笑を返す。
「だ〜か〜ら〜・・・・悪かった、って」
「・・・・ほんとはさ、俺を殺したい、とか思ってるでしょ?」
「あんな事でおっ死んじまわれたら、俺、かなり切ねぇかもな。俺が今まで10年近く
費やして来た事が全部、無駄になっちまう訳だから」
「・・・・・・で?回診時間でもないのに、また、こんなとこに居るって・・・わざわざ、
俺の事、脅かしに来た訳?・・・・相変わらず、ヒマ!!なんだね?」
「あ、いや、脅かしたのは、ちょっとした単なる悪戯心だから。用件に関係はねぇ」
「・・・・ちょっとした単なる悪戯心、ね・・・・すんごいメーワク・・・・」
露骨に不機嫌を露わにして、不貞腐れる吾郎の様子には敢えて気付かない振りを決め込んで、
木村は簡単に話題を変えた。
「それはそうと、こないだの話、考えてくれたか?」
「・・・・・何だっけ?」
「花見の話」
「・・・・木村くん、君、もしかして、記憶力、悪いんじゃないの?それとも、聴覚が
正常に機能してないとか?それとも・・・・嫌がらせ?桜が嫌いだって言った俺に嫌がらせ
したいの?」
「嫌がらせ、って、お前。また、随分と子供っぽい発想だな」
思い掛けない木村の反撃を食らって、吾郎は悔しげに唇を噛み締める。
「俺はお前のためになる事しかしねぇし、お前が元気になるために必要な事しか考えてねぇ」
思いの外、真剣な木村の眼差しに、吾郎は居心地悪げに目を伏せる。
「・・・・で?お花見が俺の治療に必要な事な訳?」
「まぁ、そうご大層な事でもねぇけどよ。たまには気分転換」
「・・・・・・・・」
黙り込んだ吾郎の反応を無言の了承と捉えて、
「まぁ、そんでもお前の体調次第だから。このまま、小康状態が続きそうだったら、近場に
ちょっと、出掛けてみっかって」
木村は少し唇の端を持ち上げて見せて。
「って事は・・・体調が崩れたら、なしって事だね?」
「そりゃあな。命がけでやるようなこっちゃねぇから」
「・・・・・分かんないな。花見なんかにどうして、そんなに拘るのか」
「分かんねぇか?」
「うん。分からないね」
「そっか・・・・ま、いいんだけどな。それより、お前、もしかして、わざと体調、崩そう
とか思ってんだろ?」
「まさか。そんな分かりやすい事」
明らかに苦笑して吾郎はシーツの中に顔を埋める。
「一応、目標は今度の日曜だから」
「・・・・・一応、ね?」
低いくぐもった声が返って来て、木村はそんな吾郎の反応に薄い笑みを漏らした。
そうして、木村の予想通り、吾郎はどうやら、木村の持ち掛けた花見話を本気で了承した
ようで。
ある程度ではあるけれど、食事の量も増えて、薬もきちんと服用するようにもなり。
相変わらず、窓は硬く閉ざされたままではあったけれど、それでも、院内の病室以外の
場所でちょくちょく、吾郎の姿が見られる事もあったりもして。
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