玄関棟の靴箱の近くでそいつを捕まえて。
驚いたように振り向いたそいつが俺を捉えて、微かな笑みを浮かべる。
「何か?」
「何か?じゃねぇよ。さっきのあのクサイ芝居は何?」
「あれっ?やっぱりお芝居って見破られちゃいました?さすが木村先輩、鋭いですね」
にっこりと口元に描いた弧が惚れ惚れするほど綺麗で、俺は無性に面白くない気がする。
「っつーか。俺ぐらいしか知らねぇんじゃねぇの?お前のその惚れ惚れするような
二重人格ぶりは」
「・・・・かも知れませんね。どうしてなんだろう、木村先輩の前だとつい、地を出して
しまいたくなる自分がいて」
不思議ですね?なんて首を傾げて目の中を覗き込んで来るヤツの近過ぎる距離感に少し
後ずさって。
「で?俺を悪者にして、自分はいい子ちゃんのまま、まんまと大会辞退したその真意は
何よ?」
「興味がないだけです。そんな勝負事に。部活動なんかどうでもいい。最初からやる気も
ないですし。弓道を出来る施設が僕の行動範囲内にここしかないから、ここでやらせて
もらっているだけなんで」
口元に僅かに携えた笑みの綺麗さに、大抵の人間は気付きもしないかも知れないが、こいつは
俺達を明らかにバカにして笑っていた。
そんな事にそんなにムキになるなんて・・・・・
言葉には出ない、そんな声さえ聞こえてきそうで。
「お前って何かに真剣になる、とか言う事ねぇの?」
そりゃ、俺も決していい子ちゃんで青春を謳歌してるって人間でもねぇけど。それでも。
何かに夢中になる、とか、そういう事、ねぇの?って。
女とも真剣な恋愛しなくて、部活動なんか興味もなくて、勉強は出来ても、それだけで。
そんなんで楽しい訳?って。
「真面目にやってるつもりですけど?校内きっての優等生の僕を捕まえて真剣になる事
ねぇの?って、そんな質問する人、初めてだな」
「真面目と真剣は全然別物だろ。こう・・・・熱くなる事、ねぇの?って」
「・・・・温度の問題ですか。それはないかも。僕の中にそんな風に何かに対して湧き
上がるような感情だとか、そういうの、はっきり言ってないですから」
「何か寂しい人生だよな。思いっきり笑ったりだとか怒ったりだとか、そういう事、
した事ねぇんだろ、今まで」
「そんな事、君には関係ないよね。僕に言わせてもらえば、君の生活態度そのものに
疑問を抱いてるけど?木村財閥の跡取りにしては素行に問題があり過ぎるよね。女生徒を
妊娠させたって噂はほんとなの?」
ずっと丁寧口調だった言葉遣いが急に変わって。
浮かべられた薄い笑みは寒気がするほどに冷たい。
「俺がそんなドジ踏むわきゃねぇだろ」
ぐっ、と腹の底に力を溜めて、その目を見返す。
「まぁ、僕には関係ないけどさ。君みたいに自分の課せられた責任も、置かれている立場も
何もかも無視して自由奔放に振舞える生き方そのものに、凄く疑問を感じる。良く、君の
ご両親は何も仰らないよね?君を後継者に据えるご予定はおありじゃないのかな?」
明らかに挑発的な視線を真っ直ぐに俺に当てたまま、そいつは吐き出すようにそんな台詞を
のたまって。
「いつまでも同族経営に拘る風潮が強いから日本の企業は、いつまでたっても外資系企業に
圧倒され気味なんだよね。だから、君の所の会長はそう言う風潮を改めて、能力のある者を
トップに据えようってお考えなのかも知れないね?もし、そうだとしてもこっちは簡単に
屈する気はないけどね?」
・・・・・って、お前、幾つ?
確か、俺より1個下で、まだコーコーセーなんじゃねぇの?
何、企業倫理語ってんの?
俺はそんなヤツにただ、ただ、呆然として、何て返していいのかも分からなくて。
「ずっとね、君の事を知りたいと思ってた。だから、わざわざこの学校に来たんだけど。
全然、気に掛ける値打ちすらない人なんだって分かってちょっとガッカリした」
わざとらしく溜息をついて、そいつは肩を竦め、さっさと俺の横を過ぎようと身を翻す。
「待てよ」
その肩をぐっと掴んで、強引に自分の方を振り向かせる。
「いた・・っ」
僅かに顔を歪めて肩を押さえたヤツが、酷く冷たい目で俺を睨みつけ。
「離してよ。もう君と口をきく事もないだろうし、関わり合いを持つつもりもないから」
「お前、俺の事、どんぐらい知ってんの?俺の事、どんぐれぇ分かってて、そんな人を
思いっきり見下したモノの言い方が出来る訳?」
「見下してなんかないでしょ?正当な評価だと思うけど?」
「お前っていうスゲー狭い視野の小っせぇモノサシで計った俺に対する評価が正当だってか?
お前、自分のモノサシに合わねぇ人間は全部下らないって言葉で括ってんだろ?」
「・・・・何、それ・・・・?」
問い返すソイツの目に今までになかったうろたえた色が浮かんだ。
「お前、トップに立つつもりなんだよな?家の跡継いで。けど、良くそんなんでトップに
立とう、とか思うよな?お前みてぇに1個の方向からしかモノ、見られねぇ人間なんかが
トップに立ったら、それこそ他が何しなくたって自滅してくってーの」
「・・・・何、分かった風な事、言って・・・・・」
「お前、ぜってぇ、もっと、もっと、視野とか物の考え方とか変えた方がいいぞ。悪ぃ事
言わねぇから。でねぇと、折角、マジメに色々とおベンキョしてる事、ぜーんぶ無駄に
なっちまうかもよ?」
「・・・・な、んで・・・?」
僅かに掠れた声を揺らして、そいつは眉を顰め、奇妙なモノでも見るように目を細めた。
「それって・・・助言、だよね?俺がそんな事に気付かずにトップに立てば自滅するって
言った。もし、その事が本当なら、何で君は僕にそんな助言をするの?君にとっては僕は
ライバル社の跡取りな訳だし、自滅してくれればこれほど嬉しくて有難い事、ないんじゃ
ないの?」
「かも知んねぇけど。俺のやってる事、俺のオヤジとかが知ったら、すんげーどやされん
だろーけど。けど、何か、そーゆーお前見てると痛ぇから」
「痛いって・・・・何が?」
益々、分からない、と言いたげに感情を見せまいとするその声が、それでも、僅かに尖る。
「さー。何だろな?自分でも良く分かんねぇけど、何か、お前、俺なんかよりもずっと
必死で一生懸命ウチのために頑張ってる風なのに、そーゆーのが報われないって可哀想な
気がするっつーか」
「可哀想、って何だよ?哀れんでる訳?僕の事、見下してんの?そういう風に僕より優位に
立ててさぞ、気分、いいんだろうね?」
「可愛げのねぇヤツ。お前、人から心配、とかされた事ねぇの?本気でお前の事思って
意見してくれる人間、今まで居なかったのかよ?」
一瞬、怯んだように整った造作の顔が歪んで、何かを言いかけて開き掛けた唇が、硬く
引き結ばれて、きつく噛み締められる。
思いっきり顰められた眉と、傷ついたように揺れる瞳が、僅かに水気を含んでじっと
俺を映し込んで。
吸い込まれそうに深い瞳に見詰められて、俺は暫く言葉も出せずに居た。
「・・・・確かに・・・僕の周囲に僕に対して何か意見をしよう、なんて人間が存在
しなかった事は認めるよ。親でさえ、僕のする事に何かを意見する、なんて事はなかった。
生まれてからずっと、自分のしてる事全てが正しいって信じて生きて来た事も事実だし」
僅かに唇を震わせて、それでも、酷く生意気な声音でそんな言葉を綴りながら。
傷ついた事を俺に悟られまいとする依怙地さが、すげーガキ臭くて。
・・・・・なんか、可愛いよなぁ、こいつ・・・・
ふわり、とそんな感情が自分の中に沸き上がって、ちょっとだけビビった。
こいつに意見出来る人間がこいつの周り居なかった事ぐれぇは簡単に想像がつくし。
俺自身がそうだし。
周りに居るのは俺の顔色を窺うイエスマンばっかで。
俺の機嫌を損ねないように、そんな事にしか神経の回らない連中ばっかで。
俺はだから。そんなヤツらの逆手を取って、好き勝手やらしてもらってっけど。
親は親で、ま、若気の至り、飽きればやめる、とでも思ってるらしくって、説教らしい
説教なんかも食らった事、ねぇし。
「ま、俺も似たようなもんだけどよ。にしても、お前・・・・怖いぐれぇ素直、だよな?」
「は?」
「今みてぇな事、普通、気付いたって認めねぇし、認めたとしても、その事、わざわざ
相手に知らせるバカ、居ねぇって」
「・・・・・・・バカって・・・」
「けど、何かいいわ。俺、嫌いじゃねぇよ、そういうの」
「・・・・・別に君に好かれようとは思ってないから」
呆れたように疲れたように、そいつは温度のない口調と視線を俺に返して来る。
「なぁ?」
「・・・・・何?」
「お前、ダチとか居ねぇだろ?」
「何、いきなり」
「いや、ダチとか居なさそうだなぁ、って」
「友人ぐらい居るよ、バカにしないでよ」
「本気で?本音で何か言い合えるダチって居んの?お前をただ、ちやほやと持ち上げて
くれる取り巻きじゃなくて、ちゃんとしたダチ?そういうヤツ、もし、居んだったら、
お前のさっきみてぇな偏ったモノの見方とか、ちょっとは注意してくれそうなもんだけど?」
「・・・・・そんな事まで立ち入って来る人間なんてそうそう居ないでしょ?」
僅かに自信なさげな、伺うような空気を醸し出して、そいつは俺から少しだけ視線を
逸らす。
「みんな、お前に気ぃ遣って、なぁんもほんとの事、言わねぇだけだろ?本気でケンカ
するとか、そういう経験だってねぇだろ?」
「ケンカなんて野蛮な事しない。ちゃんと理性的に話し合って解決する。何か意見が
食い違ったりした時は」
「本気で自分の気持ち、ぶつけられる相手が居るかって事」
「・・・・・い、・・・・」
言い掛けて、そいつがその答えを続けられずに口を噤む。
ほんの僅かな気詰まりな空気が俺達二人の間を支配して。
一度、逸らした眼差しをもう一度、俺に真っ直ぐ当てた時にはもう、それまでのうろたえた
ような素直にも見えなくない瞳の色はどこにもなかった。
「そういう相手なんて必要ないんだよ、僕には。僕に近づいて来る人間には多かれ少なかれ、
何がしかの目的や下心があって、その相手の本音を見極めるために、神経張り詰めて、
不必要に敵を作らないために、表面上は穏やかにやり過ごして。子供の頃からずっと
そうして・・・・だから、もう今更・・・・俺にとっては、それが普通で当たり前の
他人の関わり方だから。俺の気持ちだとか、本音だとかぶつけられる相手なんか居なくて
いいんだ」
ずっと、敢えて少し距離を置くように使われて来た優等生の仮面を被った僕と言う呼称が、
途中から俺に変わって。
俺はそいつが感情的になっている事を知る。
「俺?お前でも自分の事、俺っつったりすんだ?」
そこをキチンと突っ込んでやったら、露骨に驚いたように両手で口を押さえ込んで。
酷い失態を指摘された時のように、悔しそうにその瞳に浮かべた苛立った色を隠そうと
さえせずに。
「ちょ、ちょっと・・・ちょっと調子が狂っただけだろ?!お前が変な事言うから?!」
「へぇえええ?俺、の次はお前?!年上の人間に向かってお前、って、随分な口、利いて
くれんじゃん?」
「あ・・・・・」
「お前だって、見せ掛けてるほどはお上品でもねぇ、って事だ?」
「・・・・ちが・・・」
「そうやって、他人の前でずっと仮面被り続けて?一生、そんな風にして生きてくつもり
なんだ?お前」
「そうだよ。悪い?」
挑むように鋭い眼差しを真っ直ぐ俺に当てて。
「お前の人生だから俺は構わねぇっちゃあ、構わねぇけどよ」
「そうだよね?僕にも君の素行や行いに色んな問題があったとしても、関係ない訳だし、
君にも僕がどういう生き方をしようと関係ないはずだよ。もう、二度とこんな風に構って
来たりしないでよね。僕と君はさ、今後の人生において、敵対する事はあったとしても、
それ以外の関係になる事なんかあり得ないんだからさ」
その容貌に似つかわしくない、斬りつけるように冷たい鋭い言葉を浴びせ掛けて、そいつは
用は済んだ、とばかり、歩き出そうとする。
「それ以外の関係になる事なんかあり得ねぇんだ?」
男にしては華奢なその細い手首を軽く掴んで。
足を止めたそいつが面倒そうに俺を振り返る。
「あり得ないでしょ?俺と君が仮に友人なんかになったりしたら、親が嘆くよ」
意地の悪い笑みが黒目がちな瞳を彩って、小面憎いその表情に腹の底に怒りに似た思いが
少し湧いた。
「親のためにダチ、選ぶんだ?」
「ヤな言い方するね?常識的に考えて、俺と君が友人であっちゃ、おかしいと思うけど?」
「常識的、ね?俺、そういうの、あんまし気にしねぇタイプだから」
「うん。そうみたいだけど。俺は君とは違うから。ねぇ、ほんとにいい加減、解放して
くれないかな?冗談抜きで俺、そんなに暇持て余してる訳でもないんだよね」
うんざりしたように肩を竦めて、俺が掴んでいる手を温度のない視線でねめつける。
振り払おうと思えば、振り払う事も不可能じゃねぇはずなのに、そいつはあくまで俺の
意思で手を離させようとしていて。
そこへ、計ったようにそいつの携帯が鳴る。
俺に手を掴ませたまま、左手だけで、不器用そうな手つきでどうにか携帯を開いて通話
ボタンを押し、耳に当てて。
「え?あ、はい・・・いえ、まだ、学校・・・はい、分かって・・・はい、はい・・・・」
ほんの少し眼差しを曇らせて、改まった硬い口調で相手に返事を返しながら。
「はい、すぐに。それじゃ」
簡単な会話を終えて、携帯をしまったそいつが小さく息をつく。
「親?」
極、短い俺の質問なんか耳に入らなかったかのように、そいつは今度こそほんとに俺に
なんかお構いなし、と言わんばかりの態度で、足を踏み出し歩き出す。
掴んでいた手が自然と離れて。
そいつは金輪際、俺を振り返る事なく、その後ろ姿はあっと言う間に細く小さく遠ざかって
行った。
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