ピーン、と。
糸を張ったように張り詰めた空気が道場全体を支配していて。
思いの外、大勢の人間が居るにも関わらず静まり返った、その空気が好きで。
ただ、あるのは的を見詰める目と、弓を携える緊張感を帯びた構えと。
それでも今日はどこか、全体的にいつもよりは浮ついた空気が流れていて。
あいつが来ているせい。
正式な部員なのかどうかすら怪しいほど、たまーにふらりと気紛れに道場にやって来て、
気が済むまで弓を引いて、そして、帰って行く。
どうして、規律の厳しいこの部内でそんな行動が許されるのか、本当に最初は信じられない
思いで。
顧問を問い詰めたら、自分の恩師からの大切な預かり物だ、という表現をしていた。
大切な預かり物、という表現がいやに嵌る気がして、俺は納得の行かないものを感じながら、
それでも、そいつはいつもそんな調子で部に顔を出していて。
むさ苦しい男ばかりの道場のそこだけにほわり、と艶やかな(あでやかな)空気が舞う。
そいつも同じ男のずなのに。
的を捉える真っ直ぐな眼差し。
弓を構える華奢な肉の薄い肩や腕が刻む優雅な流れ。
静止して、静かに息を整え、そして、指から放たれた弓が鮮やかな弧を描いて的の中心に
吸い込まれるようにして突き刺さる。
と、同時に周囲から漏れる尊敬を帯びた溜息。
俺のすぐ後ろで弓を引いているアイツが、その瞬間にどんな表情を浮かべるのか想像も
つかないけれど。
そして、呼吸を整え、自分も同じように弓を番えて・・・・・
息を整えて放ったつもりのそれは僅かに的の中心からずれて左下方に突き刺さり。
「・・・・木村先輩が外した・・・・」
微かな声が漏れ聞こえて。
結局、俺とアイツとの勝負はアイツが勝利を手にした。
普段、こんな風に部内の話し合いの場に居ないはずのアイツの顔がある事に少しだけ驚く。
「何、珍しいじゃん?どういう風の吹き回しだよ?」
その隣に座り込んで視線は合わせず、声だけを掛ける。
「居たくて居る訳じゃないから。どうしても、って部長に頭下げられて仕方なく残ってる
だけ。ほんとは早く帰りたい。予定、色々と詰まってるし」
「デート、とか?」
わざと意地悪い笑みを添えてやると
「まぁね?」
向こうも驚くほど鮮やかな、けれど、温度のない笑みを返して来て。
そんな風にやり取りする俺達を部の連中は不思議そうな顔で見ている。
ま、そりゃ、そうか。
どう見ても接点、なさそうに見えるだろうしな。
現実、これまでこんな風に部内で口をきいた事もなかったし。
正式な部員でもないコイツは部内でも完全に浮いていて、ま、言えばゲスト、みたいな
立場で。
ちやほやされる事はあっても、普通の部員同士のような心おきない和気藹々とした雰囲気は
さすがに皆無で。
だから、こんな風に部員が全員顔を揃える部会に残るって言うのは、なかなかに居辛い
んじゃねぇか?とか、そんな事もチラリと脳裏を掠める。
暫く、そこここで雑談が続いた後、部長が漸く姿を現し、今日の部会の趣旨を説明し始めた。
「今日、みんなに残ってもらったのは、他でもない来月に控えた都大会の選手選出について
なんだが」
その言葉に辺りの空気が一気に緊張感を孕む。
「我が校はここ数年、ベスト4、ベスト8、ベスト4、と、それなりにいい成績を収めて
来ている訳だが、毎年、もちろん、目標は優勝である訳で・・・・今年はその悲願達成の
ためにもベストな布陣で臨みたいと思ってる」
部長の声に周囲の空気が一瞬ざわつく。
普段だったら居ないはずのソイツの存在を、みんながそれとなく意識して。
「代表に2年の稲垣を加えたいと思ってる」
予想通りの部長の声に、さすがにそれでもみんな驚きを隠せずに居る。
「待って下さい」
何かを考える前に口が先に出てしまっていた。
「木村、異議があるって言うのか?」
威圧的な部長の声が耳を刺す。
部長は俺達に相談している訳じゃない。通告しているだけ。
そう決めたんだと報告しているだけ。
そんな事は分かりきっていても、俺は言わずにはいられなかった。
「これまでずっと、代表選手は3年の中から選出されて来ました。それなのに、今年に
限って2年生を選ぶと言うのは・・・・」
「実力からしても妥当だろう?何の問題もないんじゃないのか?この部内で一番実力が
あるのは木村だと俺は評してる。けれど、そのお前を凌ぐ実力があるのは稲垣だろ。さっきの
試合でもそれははっきり証明されている」
「確かに。稲垣は技術的には優れてるかも知れません。けど、都大会はオリンピックじゃ
ない。競うのは技術の優秀さだけじゃないはずです」
俺は知ってる。
3年間、コツコツと努力を積み重ねてきた同輩達を。
道場を綺麗に磨いて、道具の手入れをして、冬の寒い時も夏の暑い時も、文句一つ言わず、
弱音を吐かず、3年間ずっと頑張って来た仲間達の弓道に賭ける真剣な想いを知ってる。
なのに、そうして努力して来た部員達を切り捨てて、ただ、技術が高いからと言って、
たまに気紛れに現われて、好き勝手やって、また帰って行く、正式部員でもないコイツが
選ばれるなんて間違ってる。
そんな事さえ分からないような部長でもないはずなのに。
どうして。
「そういう甘い事、言ってるから優勝出来ない」
部長の言葉が重く響く。
「優勝ってそりゃ、誰だって目指す目標はそうであっても、もっと大切なモノ、あるはず
なんじゃないんですか?!」
「勝負の世界では勝つ事が全てだ、と俺は思う」
「部長がそういうお考えの持ち主だったなんて知りませんでした」
部長の本気を感じて、俺は口を噤む。
これ以上は何をどう言った所で平行線を辿るだけ。
稲垣を入れれば優勝が確実に近づく事だけは、誰の目からも明らかで、その二文字に
魅せられる部員達の気持ちが完全に理解出来ない訳でもなくて。
そりゃ、俺だって優勝したい。
今年最後の大会で。
けれど、それでも・・・・・
俺が抵抗を示した事で、その場の空気は酷く気まずいモノの変わっていて。
自分達には直接関係のない1、2年生達まで、固唾をのんで場の成り行きを見守っている。
「折角ですけど・・・・」
不意にその場の重い空気に似つかわしくない甘みを帯びた声がして。
みんなが一斉にその声の主に注目する。
そうして注目される事には慣れ切っているのか、全く顔色一つ変える事なくソイツは更に
言葉を続ける。
「あの・・・僕、先輩達を差し置いて大会に出るなんて、そんなの、困ります・・・」
そうして、黒目がちな瞳を彩る長い睫を僅かに伏せて。
「今、木村先輩も仰いましたが、僕、この部の正式部員と言う訳でもないですし・・・・
木村先輩だけじゃなくて、他の先輩方もきっと木村先輩と同じ事を思われてると思います
し・・・・あの・・・僕、色々と個人的な事で忙しくて、みんなと同じようにちゃんと
した部活動って出来ないから・・・・だから、大会なんて・・・・そんなの申し訳なくて
・・・・・」
弱々しげにその小振りな口元から漏れる細い声に、周囲の雰囲気が一気にそいつよりに傾く。
中にはあからさまに俺を非難するような目で見るヤツまで出て来る始末。
「あの、だから。本当に大会は3年の先輩方で頑張って下さい。部長のお気持ちは凄く
嬉しかったです。ご期待に添えなくて申し訳ありません。あの・・・用があるのでこれで
失礼します」
深く頭を垂れて、ソイツはそそくさと部室を後にする。
後に何とも言えない気まずさを残して。
「ちょっと、待てよ!」
俺はそんなヤツの後ろ姿を追って思わず部室を飛び出していた。
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