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【3】
帰り道。
いつになくゆっくりと歩を進める拓にぃの隣に肩を並べて。
「今日はほんとにありがと。ご飯も美味しかったし、これも。凄く気に入っちゃった」
嬉しくて気がつけばほとんど拓にぃと肩をぶつけるように・・・・くっつきそうな距離にまで
近づいていて。
「歩き難いだろーが」
とか苦笑する拓にぃの左手にふと、俺の右手の指が触れる。
「・・・・・・・・?」
ほんの一瞬触れたそれを思わず握り締めてしまっていた。
「ちょ、バ・・!何やってんだよ」
慌てたように手を振り払われて。
けど、俺は構わず、もう一度、その手に自分の手を重ねた。
「んだよ・・・・!」
怒ったような顔つきでこっちを睨んで来る拓にぃの瞳が、それでも心なしかいつもより多めの
水分を湛えて見えて。
手を握り締めた反対側の手をほとんど反射的に拓にぃの額に伸ばしていた。
「・・・・・・・・・・・・・」
言葉が出せない。
その額に当てた掌に伝わって来る熱は明らかに平熱を超え過ぎていた。
「な、何でっ?!いつから?!」
そのまま道路脇に走り、即行で片手を挙げる。
「ちょ、何やってんだよ。こっからタクシーなんかで帰ったら、どんだけ金掛かると思ってんだよ」
普段の拓にぃらしからぬスローペースで、それでも、拓にぃは俺のかざした手を引き下げようて
手首に手を伸ばして来る。
「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!ねぇ、いつから?いつから体調悪かったの?全然、
気付かなかった俺も相当間抜けだけど・・・・何で、こんな無理してまで・・・・誕生日の
プレゼントなんて別にいつでも・・・・・!」
「今日しときたかったんだって」
「だから、何でっ?!」
「大した事ねぇ、って。電車で普通に帰れっから。ほら、マジ、タクシーとか止まったら
シャレになんねぇだろ」
拓にぃはそうして俺の手を引っ張る。
「シャレになんないのは拓にぃの体調じゃん!ごめん、ほんと、全然・・俺・・・気付きも
しないで」
手の上げ下げの攻防の中で、それでも俺はしゅん、となってうな垂れる。
「・・・・・・大丈夫だっつってんじゃん。そんなに心配するほどの事じゃねぇんだって」
「でも・・・・・!」
「お前がちゃんとうちまで責任持って連れて帰ってくれんだろ?」
「それはもろちん」
「んじゃ、ちょい肩、貸して」
そう言うなり拓にぃの体温が近くなり、鼻先を拓にぃの匂いが掠める。
柔軟剤の清潔な香りに交じって、さっきの少しのワインの匂いと、ほんのりと爽やかな甘過ぎない
シトラス系っぽい匂いは少しだけお日様を連想もさせて。
周囲の温度は陽が落ちてしまってからはめっきり冷たくなっていたけれど、やっぱり、拓にぃは
夏のお日様の印象。
完全に体重を預けられてる訳でもなかったけど。
それでも人を支えて歩く、って事がこんなにも大変な事なんだ、って。
その重みに時折、もつれそうになる足を必死で叱咤しつつ、どうにかうちまで無事、拓にぃを
連れ帰って。
すぐさま拓にぃの部屋に運んでそのままベッドサイドに陣取った。
「冷えピタ張っときゃ平気だから」
とか。
どうしようもなく愛想のないセリフを吐く拓にぃを無視して。
頭の下にアイスノンを敷いて、氷を浮かべた洗面器で柔らかな肌触りのいい素材のハンドタオルを
絞る。
「・・・・・・冷て・・・・」
そぉっとそれを額に乗せたら、一瞬だけ拓にぃが肩を震わせたけど。
それでも、次の瞬間にはほっとしたように静かに瞼を伏せて、ゆっくりと額の上のタオルに
指先で触れたりしながら。
「・・・・・・ガキん頃・・・・こんな風にしてお前に面倒見てもらった事、あったよな」
「あったね。広にぃに物凄く怒られてさぁ」
「ずる休みなんかすっからだろ」
「だって。心配だったから。俺が学校行ってる間に拓にぃの容態が急変したりしちゃったら
どうしよう、って」
「・・・・・・・心配し過ぎ・・・・面倒見てくれたんはいいけど、デコに乗っけたタオルから
水、滴って来っし、作ってくれたおかゆがじゃりじゃりでよ・・・・・」
「じゃりじゃり、って何?」
「ほうれん草?とかにくそんな感じの何か葉っぱ系入れてくれてたんはいいけど、ちゃんと
洗えてなかったっぽくてその土が口ん中でじゃりじゃり・・・・・」
「嘘!」
「マジ」
「えー?!だって、拓にぃ、あの時、そんな事一っ言も・・・・!」
「言うわきゃねぇじゃん」
「・・・・・言ってくれれば良かったのに」
「嬉しかったし、美味かった、味は。卵も1人で割れねぇお前がそんでも必死でやってくれた
それが嬉しかった」
「・・・・・そ、んなの・・・・・・・・」
額のタオルに触れていた指が俺の額にかかった前髪を軽く嬲って。
「・・・・・・中国・・・・いつ経つの?」
ずっと聞きたくて、けど、聞けなかった言葉がふと零れ落ちる。
「んー・・・・・?」
拓哉にぃはほんの少しだけ困ったように、伏せたままの瞼がぴく、と動いた。
「言わずに行くつもり?ある朝、気付いたらもうこのうちには居なかった、って言うパターンなの?」
「・・・・・・・んー・・・・」
「今生の別れとか言うんでもないくせに。どれぐらいの期間行くつもりしてるのか知らないけど、
ちょっと見送るぐらいさせてくれてもいいんじゃないの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「帰って来るんでしょ?ちゃんと。被災地の人の手助けをしてあげて、ちゃんと帰って来るんでしょ?
だったら!」
「・・・・・・・・・・・明後日」
漸く拓にぃが重い口を開く。
・・・・・・・・・明後日。
道理で・・・・・・
今日のうちに済ませておきたかった訳だよね、多少の体調不良を押してでも。
明日はそれこそ出発の準備や何やで忙しくなるんだろうし。
「でも、今日こんな体調で明後日出発とか出来るの?健康診査とかそう言うのはない訳?」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「俺って自分でも気が滅入るぐらい、今、どうしようもなくヤな事、考えてる」
「・・・・・・・?」
「このまま・・・・明後日過ぎても拓にぃの体調が戻らなければいい、って」
「・・・・・・吾郎」
「酷いヤツだよね。自分でも呆れちゃう・・・・・・・」
「・・・・・・お前・・・・・・」
「冗談、冗談だから。大丈夫、こんな熱、一晩もすれば下がるよ。大した熱じゃない。俺、
確かに・・・・変な心配・・・し過ぎるだけ、勝手に・・・・・ごめん」
前髪を軽く嬲ってた手が不意に後頭部に回って。
グッと頭を押さえ込まれて、横になってる拓にぃの胸元に思いっきりつんのめる。
鼻が布団にぶつかって少し擦れて痛い。
「写真・・・・・・」
突っ伏したままの耳にダイレクトに振動が届くように。
ほんの少しくぐもって聞こえなくもない拓にぃの声がする。
「あちこち色々写真撮ってるうちに・・・・・段々、人に的が絞れて来て・・・・色んなありふれた
日常の中に、それでもちっさなドラマが一杯詰まってて。そんな何気ない風景を写し取ってる
うちにある日、出会っちまったんだよな、当たり前の日常の中に潜む当たり前じゃない日常?
今、こうしてお前とふっつーに喋ってるこの瞬間が当たり前じゃなくなる?それも一瞬のうちに?
うちの親が突然、他界したみてぇに・・・・・あん時からもしかしたら、俺ん中で何か・・・・
こう上手く言葉には出来ねぇんだけど、何かが芽吹いた感じっつーの?で、そのうち、何か
そう言う非日常的な?災害だとか事故、だとか・・・・気がついたら俺の写真はそんなもんを
捕らえるようになってて・・・・・・そのうち、自分にも何か出来る事があんじゃねぇか、何か
せずにはいらんねぇ、って思っちまうようになっちまった、っつーか・・・・・・・」
「・・・・・・・うん」
そう・・・・・気付いてた、ほんとは。
拓にぃの写真がそうした災害に遭った人達の色んな表情を捉えるようになった事。
そこにあるのは決して、悲しみに蹲って立ち上がれない人の打ちひしがれたそれじゃなくて、
そんな中でも人はどうにかして明日に向おうとするんだ、って言う不屈の光、みたいな・・・・
そう言うものを写し取ってる事も見て取れた。
呆然と立ち尽くしながらも、それでも、人はやっぱり明日を目指すんだ、って。
俺達がそうして兄弟達でどうにかこれまでやって来たみたいに。
拓にぃはそうして逆境の中も雄々しく明日に向おうとする人達の、少しでも手助けになれれば、と
思ってるだけ。
トクトク、って。
普段より、って言っても普段の鼓動の速さがどんな感じなのか、はっきり知ってる訳では
ないけど、それでも、少し早めに感じられる音と。
くっつけた耳や頬に布団を通しても伝わって来る温度が、やっぱり多分、普段よりはほんの
少し熱くて。
何だろ、その熱に当てられるように、じんわりと目の奥に滲む熱を軽く握った手の甲で一度だけ
押さえて。
「タオル、替えるね」
半ば押さえつけられるようにして突っ伏してた拓にぃの上から起き上がり、何気ない風で
額のタオルに手を伸ばした。
「心配・・・・・・」
ぼそり、と。
低く拓にぃの声が漏れて。
「え?」
「心配、してくれてありがとな・・・・・ほんとの事言うと・・・・昨夜、あんな風にお前に
引き止められてすっげ、迷ったし、いっそ、マジで止めちまおうかとも思ったぐれぇだった
んだけどな・・・・・・・お前があんな風に止めてくれる、とか・・・・・正直、あそこまで必死で、
っつーか・・・・うん、あんな風に止められるとは思ってなくて・・・・・すっげ、嬉しかった」
「・・・・・何、それ」
「サンキュ、な・・・・」
「うん・・・・・・気をつけて、本当に気をつけて行って来て。絶対に危険な事はしない、って。
危険な場所には近づかない、って約束して」
「ん。約束する」
「絶対、絶対だからね」
「ん。ぜってぇ、ぜってぇ」
「・・・・・・うん」
ぎゅっと。
手が痺れるほど冷たい氷水で絞ったタオルを、もう一度、拓にぃの額に乗せて。
「これ・・・・大切に大切にするから」
手首でさりげなく存在を主張するそれに、そっと指を滑らせる。
「ん、俺も。俺も向こう行ったらずっと、肌身離さずあれ、身に着けてっから。そんでいつも
お前とか兄弟の事とか思って、十分、気をつけて行動するようにすっから」
「・・・・・・・うん」
そうして。
布団の中から俺の手首に着けたそれに手を伸ばして来た拓にぃの手が、そっと、俺の掌に
重なって、指が軽く絡まる。
「ガキん頃・・・・お前がほんとにまだちっさかった頃、良くベッドで泣いて。覚えてる?そん時に
こうやって手とか繋いでやってたんだよな、お前が寝付くまで」
「そんな事、あったっけ?」
酷く昔の話をされて。
ほんとは覚えてたけど恥ずかしくて、つい、とぼけてしまった。
「お前、ちっさかったもんな・・・・ママ、って泣いて・・・・・・」
「止めてよね、今更、そんな子供の頃の話。恥ずかしい」
「何かちょい、思い出しちまって、つい」
苦笑して、拓にぃは俺の手をしみじみ見詰める。
「おっきくなったよな、手」
「手だけじゃなくてね」
「ん。大人になったよな、お互い」
「そう、だね」
そうして、少しずつ。
ずっと密接してるような距離だったのが、少しずつお互いに離れて行くのも当たり前の事で。
いづれ、そう遠くない将来にはそれぞれに家庭を持って、だとか。
そんな日もきっと来るはずで。
「コンディションちゃんと整えて。元気で行って元気で帰って来なくちゃね」
「んだな」
軽くブイサインをして見せて。
その手を布団の中に仕舞って、拓にぃは間もなく穏やかな寝息を立て始めた。
2日後。
見事に復活した拓にぃはリュック1個だけを背負って、手始めに10日ほどの日程で出発して
行った。
「あれ?そう言えば・・・・ねぇ、拓にぃがいつも使ってたパソコン、てどこにあんの?」
拓にぃが出発した日の夜。
ふと、慎吾がそんなセリフを口にして。
「パソコン?」
「うん。ネトゲーしようと思って。ほら、普段はさー拓にぃが管理してたじゃない?だから、
言い難かったんだけど、今だったら使い放題、でしょ?」
「ネトゲーか、いいね。俺もやりたい!」
剛も慎吾の言い分にあっさり同意を示したりなんかもして。
「そう言やぁ・・・・拓の部屋にあんのか?吾郎、お前、ちょっと見て来い」
「何で吾郎ちゃん?」
「んー?何か他のやつには入らせねぇでくれってよ、拓がそう言い残してった、向こう行く前」
「何、それー?!」
慎吾がジタバタと煩く地団駄を踏む音から逃げるようにして拓にぃの部屋に入り、ざっと中を
確かめてみたけど、それらしいものが仕舞われてる形跡はどこにもない。
「ないみたい。拓にぃ、もしかしてパソコン、持ってったのかな?」
「えーーーっ?!だって、あんなリュック1個のどこにわざわざパソコン入れて持ってった
って言うんだよぉーーー!!」
どうしてもその現実は認めたくないらしい慎吾が相変わらず駄々をこねてる。
・・・・・・・煩い。はっきり言って煩い
「ねぇーーー!吾郎ちゃんもパソコン、持ってんでしょーー?!貸して?貸してぇぇぇ!!!」
「やだ!俺のは仕事用だもん。お前なんかに触らせられない。拓にぃが帰って来るまで諦めなよ」
「あ、ね。メール打って聞いてよ、パソコン、どこにあんの?って。確か海外でも使えるって
言う携帯、持ってったはずだよ、拓にぃ」
「そんな下らない事でメールなんかしたくない」
「どうせ毎日、おはよう♪だとか、おやすみvvとか言う、くっだらないメールのやり取り
するに決まってんじゃん?!だったらいいじゃんよーーー!!!」
「いい加減にしねぇかっ!!」
唐突に掠れたドスの効いた声が響いて。
と同時にガシって言う少し鈍い音が続く。
「いってぇぇぇ!!!」
大袈裟にのたうつ慎吾の横にしゃがみ込んで剛が小さく「大丈夫?」とか聞いたりなんかも
しながら。
ねぇ、拓にぃ?
こんな風にして今日も相変わらずみんな元気だよ、って。
まだ、そんなに時間が経ったって訳でもないのに、俺はふっと脳の中によぎった思いに薄く
苦笑を洩らしたりなんかもして。
そして、俺が、自分のパソコンにいつの間にかテレビ電話仕様のパーツが取り付けられてたり
なんかするのに気付いたのは、それから数時間後の事だった。
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