「おはよう」
普段より少し遅れて木村が病室を訪れると、ベットの上に起き上がった吾郎が
何かに夢中になっていた。
「何やってんの?」
「何でもいいでしょ!」
手元を覗き込もうとする木村を冷たく跳ね退け、シッシッとばかりに手を返す。
「いいじゃん。別に」
「邪魔しないでよ。見ないで。」
「なんだよ」
不満げな声を出しても木村の顔は笑っている。どうやって見てやろうかと
たくらんでいるのだろう。それにも気付かずに吾郎はノートとにらめっこ。
「あのさ、」
「何?」
聞き返す吾郎の声に刺が含まれる。
「怒んなくてもいいじゃん。」
じろっと見上げる視線はどこまでも冷たい。
「一応さ」
「だから、何?」
腕を不自然に置き、木村の目からノートを隠す。
「回診…で来たんですけど」
「あ、そう。それもそうだね。こんな時間だもんね。」
そう言うと、吾郎は案外あっさりと拒否のオーラをおさめ、ベットに横になった。
必死に守っていたノートも無防備にテーブルの上に広げられている。
慣れた様子で胸をはだけ、冷たい聴診器に顔をしかめる。
一通りのチェックを終えると、木村の顔が後ろを向いた。
「へぇ〜、数学」
「ちょっと!やめてよ。見ないでよ!」
声を張り上げても、木村に体を抑えられては、身を起こす事も適わなかった。
「数学好きなんだ?」
「別に」
「だって夢中で解いてたじゃん」
「ただの暇潰しだよ。他に何もやる事ないしね。睡眠薬貰って一日寝てるのにも飽きたし。」
じっと木村を見据えたまま、言葉を紡ぐ。
「それにさ、死んだように眠るとか言うけどさ、実際には死ねないんだもん。がっかり」
悪びれもせずに言う姿に木村が表情を険しくする。
「今、なんて?」
見下ろす木村の瞳。年下の者を反省させるには充分なその強い視線を吾郎はいつもの
人を食ったような顔で見返す。気まずげに顔を伏せたり、目線を逸らすそぶりも
見せない。逆に挑むような顔をしてみせる。
「なかなか死ねなくて、残念って言ったの!」
わざと一言ずつ区切って言う。
「そういう事を言っちゃいけないって前にも言わなかったか?」
「そうだっけ?だとしても、それは君の意見でしょ?自分の考えを人に押し付けるのは
よくないと思うよ。木村センセ。」
わざとらしく付けられた敬称。木村の声に凄みが増そうが、人に叱られた事のない吾郎は
何とも思わない。
「お前、世界に」
「世界になんて興味ないよ!」
木村の言葉を遮った吾郎。しかし、それをまた木村が遮る。
「聞けよ!世界には生きたくたって生きられない人がいる。必要な治療が受けられなくて
簡単な病気で死んでいく人がいる。その中でお前は、どれだけ高度な治療を受けられてると
思ってるんだ!その命を、」
「頼んでなんかない!誰も頼んでなんかない!そんな道徳論聞きたくもない!」
「……。」
無言で、ふーんと顔を上下させる木村。
声色を若干変え、静かに次の言葉を口にする。
「吾郎、手、出して」
「手?」
突然の要求にわけが分からず素直に従う。 途端に聞こえた破裂音と感じた痛み。
「痛い!」
「痛くしてんの。口で言って分からなければ、体でわからすしかないだろう」
「やめて、離して!勝手にそっちが興奮してるんだろ?」
「ごめんなさいは?」
「嫌だ。言わない。言わなきゃいけない意味がわからない!」
「…」
「痛い!」
「どれだけの人間がお前の為に頑張ってると思ってるんだ」
「知らないよ!そんなの。離して!俺は助けてなんて頼んでない。医者の自己満足だろ?
助かりたいとも思ってない患者を勝手に救って、いい気になって。あ!そうだ。だったら、
俺を殺して、その分のお金で世界の人を助ければいいじゃない!俺より価値のある人を
いっぱい救える!そうすれば?ねぇ?木村セン…」
コトン
いつもの音がした。木村の目から怒りが消える。
「興奮してるのはお前だっつーの」
「ほっといて。助けなくていい」
「やーだね。何度でも助けてやる。」
木村の言葉を最後まで聞くことなく、吾郎は意識を手放した。
「手の焼けるお坊ちゃまだこと」
呟いた木村の顔は穏やかだった。
|