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白く冷たい雪がすべてを呑み込むように覆い尽くしてしまう
美しいけれど、厳しくてちょっと切ない季節がようやく
終わりを告げようとする春の始め。
心持ちぬるく温まった空気が木々の芽や草花をそっとくすぐり
微笑む花々の吐息が甘い香りをそこここに洩らし始める。
なんとなく気だるくて、けれど、何かが始まりそうな子供っぽい
期待に胸が膨らむ。
もう、そんな頃なんてとうに卒業したつもりだったのに。
彼女との出会いはそんな春の日の午後。
「カーターさん、こんにちわっ!!」
いつもと変わらない明るい声が、静寂を見事にぶち破って
聖堂の中に響き渡る。
「あれっ?!カーターさんは?」
「出掛けてるけど・・・用事で・・・」
「クリフくん、お留守番?」
「まぁ・・・」
ボクが留守番する意味は大してないと思うけど。
無人になるよりはまし、って程度。
「カーターさん、いないんだったらちょうどいいや」
ニッコリ笑った彼女の瞳に悪魔のような輝きが灯ったのは
確かにボクの思い過ごしや見間違いではなくて。
「毎日、毎日懺悔ばっかりしてるのって、体に良くないよ」
彼女の論理はどう考えてもおかしくて、「そんなこと
あるわけないじゃないかっ!!」内心で叫んでいたけど、
声には出せなくて。
「毎日、暇そうだよね。ウチね、ねこの手も借りたいくらい
忙しいんだ、毎日」
彼女の言わんとしていることが全く想像出来なかったわけじゃ
ないけど、想像したくはなくて。
黙っているボクの襟を後ろから急に掴んだかと思うと、そのまま
彼女はボクを引きずって教会を出ようとする。
「ほら、行くよっ」
「カーターさぁ〜〜〜んっ!!た〜す〜け〜て〜〜〜!!」
ボクの悲鳴は聖堂中に虚しくこだまする。
どこか掴まるところを求めて虚空をさまよう両腕。
「暴れるんじゃないのっ!!」
彼女に一喝されて反射的に抵抗を諦めてしまう根性なしなボク。
けど・・・
首が絞まって酷く苦しいのにも関わらず
ボクは今、ボクの置かれている状況が理解出来なくて。
彼女がボクを引きずってる?
って変じゃない?
って言うかすっごい怪力?
そりゃ、たった一人で雑草はおろか、切り株や石ころ、
果ては岩までがゴロゴロと転がっているあの荒れ果てた
場所を牧場として再建しようとするくらいのコだから
これくらい(ボクを引きずって歩く・・・って一応、男なんだけどね、
ボク。ついでに言うといくら華奢でもそれなりに体重はあるんだけど)
のことは朝飯前なのかもしれないけど。
でも、どうしてボクがこんな目に遭わなきゃならないのか・・・
さっぱり訳がわからない。
牧場についた途端、彼女はどういう構造になっているのかは
あまり深く考えたくない、見た目普通のリュックから
クワを取り出し(?)ボクに放ってよこした。
「はい。ここからここまで耕して。それ済んだら種まいて
水やってね。ちゃんと誠心誠意やってよね。植物だって
ちゃあんと分かるんだから」
「あの・・・」
「働かざる者、食うべからずって言葉、知ってるわよね。
ぐずぐずしてると今日中に終わらないわよ」
顔は笑ってるけど目は笑ってない。
「じゃ、私は釣りに行って来るから」
頭の上で手をヒラヒラさせて彼女は颯爽と牧場を後にする。
その後ろ姿はなかなかに凛々しくて・・・
ってそうじゃなくて・・・・
ボクは受け取ったままの形で固まっている両手に持たされた
クワをボーゼンと眺めて・・・
生まれて初めてクワで土を耕して、種をまいて水をやって・・・
クタクタになって晩御飯も食べられずに、汚れた服のままベッドに
ダイブする。
朦朧とする意識の中で悪魔のささやきが蘇る。
「良かった。意外にちゃんと出来てるじゃない。また明日も
よろしくね。6時に来て」
そして、ボクは深い深い底無しの泥沼に引きずり込まれるように
眠りに落ちた。
眠る直前、ふ、とこんな風に何も考えずに眠るなんて
あの日以来、初めてかも知れない・・・とそんなことを思った。
「おはよー。って、クリフくん?珍しー。今日は早いんだね」
体中が痛くて手すりに掴まってかろうじて階段を降りるボクに
ランちゃんはやたら元気に挨拶して来る。
「おはよ・・・」
ボクは返事をするのも億劫で。
「え?出掛けるんだ。いってらっしゃぁい!!」
ボクの無愛想な態度も全然、気にならないのかランちゃんは
やたら笑顔でボクを見送ってくれる。
元気だよね、いつ見ても。
ボクはちょっと眩しい思いでランちゃんに背を向ける。
その背中に彼女が小さく溜息をついていることなんて
ボクは全く気付かなくて。
「おっはよー!!」
諸悪の根源、ボクの筋肉痛の原因を作ってくれた彼女が
溌剌とした明るい笑顔で牧場の入り口で手を振っている。
何がそんなに嬉しいのか満面の笑顔。
ボクの苦労も知らないで・・・
ボクは心の中で舌打ちする。
「良かったぁ。今日は来てくれないかと思ったよ」
そう言う彼女の顔は本当に嬉しそうで、ボクは少しだけ
心が浮き立つような錯覚に陥りそうになる。
「今日は水やりだけだからすぐに終わるし、お弁当持って
マザーズヒル、行こ」
彼女の提案になんとなく肯いてしまったのも、多分、
そのせいで。
彼女が水やりをしている間、これと言ってやることもなくて
何気なく牧場を見渡す。
あんなに荒れ果てていたのに、一体いつの間にこんなに
ちゃんとした場所になったんだろう。
草を抜いて、石ころをどけて、切り株を割って・・・
さすがに岩はまだ転がってるけど、それでもちゃんと
畑も牧草地も作られて。
女のコがたった一人で。
ボクはたった一日やっただけで、あんなに体中が痛くなったのに。
ボクはマメの出来かけている両手を見ながら、彼女もおそらく
感じたであろう痛みを思った。
痛くないはずがない。
疲れないはずがない。
平気なはずがない。
「変わろうか?」
気がつくとボクは彼女の後ろに立って、そう声をかけていた。
驚いたように振り返った彼女は眩しそうに目を細めて言った。
「クリフくんから話しかけてくれたの、初めてだね」
彼女は、長い間背負っていた重荷を下ろした旅人のように
ホッとした安堵の表情を浮かべて。
「そうかな」
ボクは彼女のそんな表情から逃れるように視線をはずした。
「じゃあお願いしちゃおっかな。私、ダッドさんにお願いしてた
お弁当、受け取ってくるから」
言われて初めて。
そう言えば彼女のウチ、キッチンもないんだっけ。
毎日、食事、どうしてるんだろ。宿屋に食べに来てる風でも
ないし。
ボクはジョウロを受け取りつつ、そんなことを考える。
「それじゃ、行こっか?」
トン!とお弁当のバスケットを渡され、ふと見ると彼女は
大きなかごを抱えている。
「それは?」
「帰リに鉱石、掘って帰ろうかと思って。まだまだ畑の収穫物だけじゃ
食べていけないから」
何でもないことのように言う彼女にボクはかすかな嫉妬すら覚える。
たらたらとゆるやかな上り坂を登ると、不意に視界が開けて
キラキラと太陽の光を反射して輝く水面が目に飛び込んでくる。
緑色の絨毯を敷き詰めたような草原に、どこまでも澄み渡る
蒼い湖。
けれど、草の緑は一色ではなく、幾重にも塗り重ねられた
油絵のように深く、繊細な色合いで、湖の蒼は一瞬たりとも
同じ表情に留まることはなく。
普段、心に留めることのなかったささやかなその存在が
初めて色を伴ってボクの心の中にしみ込んでくる。
「この辺でお昼にしよっか」
草原の真ん中に座って、お弁当をボクに差し出しながら。
「はい。手作りじゃなくて悪いけど・・・
って私の手作りなんて食べたくないか」
彼女は自分で言って笑っている。
「こういうところで食べると、いつもより断然おいしいよね」
おにぎりに豪快に食らいつきながら彼女はボクに笑いかける。
確かに。いつも食べ慣れてるダッドさんの料理なのに、
いつもよりおいしく感じる。
「それにクリフくんも一緒だし」
え?と顔を上げたボクに
「あ、変な意味じゃなくて。いつも一人で食べてるから」
意識して作った笑顔では、彼女の瞳の奥に潜む寂しさまでは
隠せない。
たった一人でとる食事・・・
想像するだけで胸の中に冷たい水が流れ込んでくるような
冷え冷えとした気持ちになる。
ちょっと胸がつまって、ボクはそっと彼女の横顔を覗き見る。
ほんの僅かな瞬間の表情の無い、彼女の顔。
能面のように白くて冷たくて硬い・・・
伏せた睫が影を作って、全く突然、彼女がいつも必要以上に
元気に振舞っている理由を思い知らされた気がした。
食事を済ませた彼女は湖のそばに座って、水面を覗き込んだり
手を浸してゆるみ始めた水の感触を楽しんでいる。
ボクは少し離れたところで横になって空を仰ぐ。
「もう少し上に行くとムーンドロップ草とかトイフラワーが
一杯咲いてて、凄く綺麗だよ」
夢見るように歌うように彼女はささやく。
「ふうん・・・」
花に興味があるわけじゃないけど、彼女が嬉しそうに話す
その景色には興味が持てた。
「休憩おしまいっ!!」
ウトウトとまどろみかけたボクの頭に突然、その声は飛び込んできて、
何の前触れもなくいきなり彼女は立ちあがった。
手慣れた様子で服についていた草を払い、ボクの横を通り過ぎる刹那。
「何があったのかは知らないけど」
独り言のような静かな声は、注意して聞いていないと
聞き逃してしまいそうなささやかな呟きで。
「後ろばかり振り返って立ち止まってるなんて、生きてるって
言えないよ」
花色の風をまとって彼女が通り過ぎて行く。
しゃんと背筋を伸ばして、前を向いて颯爽と。
彼女が起こしたその風は、ささくれ立っていたボクの心をなだめるように、
優しく通り過ぎて行く。
明日、もう一度、彼女の元を訪れてみよう。
彼女が教えてくれた花々を、両手一杯の花束にして。
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