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♪♪♪〜♪♪♪〜
携帯の着メロがなった。
ボクはパソコンの画面を睨んだまま電話に出る。
「今、どこ?」
名前も名乗らず、いきなり問い掛けてきたその声は酷く冷ややかで、
努めて冷静さを保とうと努力しているのがありありだった。
ボクは慌てて時計を見る。
PM6:50?!
ヤバッ・ ・ ・
6時に待ち合わせで、7時から映画の約束・ ・ ・
・ ・ ・忘れてた。
「ごめん。まだ、会社」
仕方なく本当のことを答える。
「ふうん。知らなかったわ。クリフの会社から映画館まで
10分で来れるのね」
ゆっくりと含みのある言い方で。
「えっと・ ・ ・ごめん。今日はちょっと・ ・ ・」
限りなく言いにくいことなので、自然声も小さくなり
途絶え気味になる。
「え?何?よく聞こえない!」
嘘つけ・ ・ ・ちゃんと聞こえてるくせに。
ボクはちょっと溜息をついて
「ごめん!!今日の映画、行けなくなった。」
一気にはっきり言いきる。
そう・ ・ ・
どんな風に言ったって、行けないことには違いないんだから。
「・ ・ ・本気で言ってるの?」
一呼吸おいて恐ろしいほど静かな声がした。
けれど、その声にはひたひたと怒りが浸透していく様が
はっきりと感じられて、ボクは少しだけ今、自分が置かれている
状況が恨めしくなった。
本当なら今日は予定通り映画に行けるはずだった。
そのつもりでキチンと仕事も片付けたし。
なのに、もうそろそろ退社時間というときになって
伝票の発注ミスが発覚して。
まあ、ボクのミスというわけではないけど・ ・ ・
でも立場上、自分だけ先に帰るというわけにもいかず・ ・ ・
どう対処しようかと考えているうちに、連絡するのを
うっかり忘れてしまった。
どうして、今日に限って・ ・ ・
「あなた今自分が何言ってるのか、分かってるんでしょうね」
言葉遣いが変わった。他人と話すときの丁寧な口調。
表情が目に浮かぶようだった。
ニッコリと笑いながら、目だけはやたら真剣で「本気で
怒ってるんだぞ!!」というオーラを出しているに違いない。
こんな状況で唯一ボクは、相手と対峙していなくて良かったと
そのことだけは喜べた。
「だから、ごめん。この埋め合わせは必ずするから」
「ふうん。ドタキャンってわけね。私が今日のために何日も前から
着て行くものを考えたり、約束の時間よりもずっと前から
待ち合わせの場所で待ってたりとか、そういうことがすべて
無駄になってしまった、と。そういうことなのね」
言ってることのどこまでが本当なのかは、イマイチわからないけど。
「だいたい、何のための携帯よ。もし、私が電話しなかったら、
いつまでも、いつまでも、いつまで〜も、待ちぼうけをくらう
ところだったのね」
思ってたよりずっと、ずっと怒ってる。
ま、元々怒りっぽい方だけど。
「私が納得できるようにちゃんと訳を説明してよ」
言うことはごもっともだけど。
「急に残業が入っちゃって・ ・ ・」
言いかけるボクの言葉をビシッと音がするほどきっぱりと遮って
「そんなどこにでもあるような言い訳が私に通用すると思ってるの?!」
クレアは少しだけヒステリックに叫んだ。
どこにでもあるような、と言われてもそれが事実なんだから、他に
言い様がないんだけど・ ・ ・
「頼むよ。今、ちょっとマジで急いでて・ ・ ・」
ボクはこの瞬間、明らかに言葉の選択を間違っていた。
例え、仕事がどんなに急いでいたとしても、そのことを
口にするべきではなかった。
普段なら、そんなことくらいは分かりそうなものだけど、
あせる気持ちが判断を狂わせてしまった。
「私が一番言いたくないセリフって、知ってる?」
クレアの声のトーンが一オクターブ跳ね上がる。
そのまま電話を切ってしまいたくなる衝動をかろうじておさえて、
ちょっと身構える。
「仕事と私とどっちが大切なの?!」
やっぱり・ ・ ・
予想はしていたけれど、露骨に言われるとなんか切なくなる。
比べようがないことを百も承知していて言うんだから・ ・ ・
答えに詰まるのを楽しむように。
「答えられないよ」
だんだん面倒になってきて。
ボクだって出来ることなら今すぐにでも仕事なんか投げ出して
映画に行きたいんだから、ほんとは。
なのに、どうしてボクばっかり一方的に攻められなきゃ
いけないんだよ・ ・ ・
「バカよね、クリフは。そういうときは嘘でも
『クレアが大事だよ』って言うもんよ」
ご丁寧に声色まで変えてくれて。
「あ、そ・ ・ ・」
会社のデスクで携帯に向かってどのツラさげてそんなセリフ、
言うんだよ。
一人きりで残業してるわけじゃないんだぞ。
「とにかくほんとにごめん。帰ったらまた、連絡するよ」
ボクは返事を待たずに携帯を切った。
一方的に電話を切られて、多分、ボクの想像をはるかに超えて
怒ってるだろうな・ ・ ・きっと。
ボクはポケットにぽそっ、と携帯を滑り込ませつつ、
深い溜息を洩らした。
「あの・ ・ ・」
遠慮がちな声が背後からして振り帰ると、同じプロジェクトチームの
女子社員のコだった。
携帯を切るのを待っていたんじゃないかと思えるような
タイミングで・ ・ ・
「何かお約束がおありだったんですか?」
聞き様によっては失礼な質問だけど。
「うん、まあ」
どう答えようか少し迷って結局、曖昧に言葉を濁す。
「すみません、私のせいで」
今にも泣き出しそうな顔で頭を下げられて、ボクは
ちょっと言葉に詰まる。
「気にしなくてもいいよ。確認の時点で見落としていた
ボクの責任でもあるし・ ・ ・」
泣かれても困るので軽く肩を叩いて。
「サッサと片付けちゃおうか。お互いあんまり遅くなるの、
面白くないでしょ?」
ちょっと笑いかけて。
女子社員のコは少し安心したように肯いて、自分のデスクに
戻っていく。
つくづく・ ・ ・
クレアと同じ職場でなくて良かった。
女子社員のコのご機嫌を取りつつ仕事をする術をそれなりに
身につけたのはいいけど、こんなシーンを見たら、また、何を
言い出すか分からないもんな・ ・ ・
ミスそのものはそんなに多い量でもなくて、なんとか修正を
終えたのは午後10時過ぎだった。
「お疲れ様でした」
今時にはちょっと珍しい、責任感の強いコだよな。
そんなことを思いながら後ろ姿を見送る。
ほんとは「残業、お疲れ」とかいう感じでちょっと
飲みにでも誘った方がいいのかも知れないけど。
もちろん、別に変な下心なんかじゃなくて、同じチームの
一員として。
でも、今日は、まあ・ ・ ・
社員通用門を出て、いつものように右手に曲がって・ ・ ・
え?と足が止まる。
なんとなく通り過ぎたけど、今・ ・ ・
慌てて振り返って。
「今、無視して通り過ぎたでしょ」
信じられなくて・ ・ ・つい、まじまじと見つめてしまう。
「ひょっとして・ ・ ・」
「折角おしゃれして出て来たんだから。そのまま帰るの
なんだかバカバカしいじゃない」
あまりにもボクがまじまじと見るもんだから、クレアは
決まり悪そうにちょっと視線を逸らせた。
「ずっと待ってたの?ここで」
「えっと・ ・ ・別にずっとってわけじゃ・ ・ ・」
クレアは完全にそっぽを向いてしまって。
両肩に手を置いて少し強引にこちらを向かせる。
「さっき、電話でつまんないこと、言っちゃったから」
諦めたように早口にそう言って。そして、何か文句ある?とでも
言いたげな顔でボクを見上げる。
そんな子供っぽい態度がなんだかかわいくて、ボクはちょっと
笑って
「仕事よりクレアの方が大事だと思ってるよ、ボクは」
さっき電話口では言えなかった言葉を改めて口にする。
クレアはぱぁっと見る見る赤くなって
「口だけは上手いんだから」
そう言ってそっと体重を預けてくる。
「飲みにでも行こっか」
クレアの肩を抱いて歩きかけながら。
そう。夜はこれからなんだからさ。
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