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【1】
「ただいまー!まー坊!風呂、入るぞぉ!」
2、3日前に降った雨のせいで、気温は一気に冷え込み。
防寒ジャンバーの襟をかき合わせるようにしてチャリをかっ飛ばし。
こんな日は丁度いい具合の温度に沸かしてくれてある風呂に飛び込み、まずは人心地つくのが
1番だって思いながら、即行、玄関を開けた途端、そんな声を張り上げて。
待つ事数十秒。
ととととっ、と。
いつものまー坊の廊下を走り出て来る音のその後ろに、俺はいつもとおなじく自然と視線を
投げた。
その後ろにはいつも・・・・・・
「拓哉兄貴!おかえりっ!!」
玄関で靴を脱ぎ掛けてるそこに遠慮なく飛び掛られ、その小さな身体を反射的に受け止めながら。
「おぅ、まー坊、ただいま」
ぐしぐし、と髪を混ぜっ返すようにしてそのちっこい頭を擦りながら、俺は当然、俺の中に
浮かんでいる疑問を投げ掛ける。
「吾郎は?」
「リビング」
至極、端的に、分かり易く一言だけ返されたまー坊からの返事では、しかし、俺の疑問を
解消する事は当然、不可能で。
「リビング?晩飯の支度?」
確かにいつも、俺の帰宅時間に合わせて、ついでに言うと入浴時間も計算に入れた上で、
丁度、出来立てアツアツの・・・・いや、俺が猫舌な事はあいつもちゃーーーんと分かっても
くれてっから、その辺はちゃーーーんと、食べ易い温度にも適度に冷ましてくれてまである
夕飯の支度に余念がねぇ事は知っちゃいる、が。
にしたって。
普段ならちゃんと、その手を止めて、エプロン姿で時におたまや野菜なんかを手にしたまま
だったりもしたりしながら、それでも、玄関までちゃーーーんと俺を出迎えてくれて。
「お帰り。お疲れ様。そろそろ冷え込んで来たね。現場は厳しいんじゃない?」
とか。こっちを気遣ってくれる一言なんかも添えてもくれつつ、汚れたタオルだとか、空の
弁当箱を引き取ってくれたりだとかしながら。
「まーくんの事、頼むね」
なんて、ちら、といつものほっこりと気分の和らぐ笑顔も添えてくれたりなんかもするはずの
・・・・・・
そこまで考えてふ、と思考をよぎった不安に、思わず俺は声を高めていた。
「ちょ?!もしかして具合悪くて寝てる、とか言うんじゃ・・・・?!」
「慎吾と遊んでる」
俺の声を思いっきり途中でぶった切って、まー坊は呆れたように冷めた視線を遠慮なく俺に
突き刺してそう添えた後、ふっ、と視線を逸らした。
「慎吾と・・・・?」
あ・そ・ん・で・る・・・?
聞き間違いでなきゃ、俺の聴覚は今のまー坊のセリフをそんな風に捕らえていたんだが。
「遊んでる」
まるで俺が言わんとしてる事が手に取るように分かるみてぇに、まー坊はもう一度、おんなじ
セリフを繰り返した。
「はぁっ?!」
余りに受け入れ難いセリフに思わず声が迸り、俺はまー坊を抱えたまま、ドカドカと足音も
高くリビングに乗り込んだ。
にも関わらず、そんな俺の足音さえ吾郎達の耳には届かなかったようで。
リビングの入り口から俺が目にした光景、と言うのは・・・・・
こっちに背中を向けて、2人してくっつくようにして、目の前にある何かを一生懸命に弄くり
ながら。
「ちょー、何でよ、それっておかしくない?」
慎吾のちょいバカにしたような、それでいて、妙にテンションの高めな声が響き。
「えー、そう?結構いいと思うんだけどなー。ダメ?」
とか何とか。
首を傾げ、覗き込むようにして慎吾の顔を捕らえる吾郎の横顔が視界に留まって。
「・・・・・・・・た・だ・い・まっ!」
そうしてもう一度、わざわざデカイ声を張り上げた。
「えっ?!」
「あっ」
俺の声にはっきり驚いて、2人揃って声と顔を上げた、そんなタイミングに、腹の底でむらっと
した何かが湧き上がる。
「もうそんな時間?!」
慌てたように立ち上がった吾郎がそこにあった何かを床にぶち撒いたようで。
「ちょっ!吾郎ちゃんてば、もーぉ!」
言葉ではそんなセリフを発しながら、その実、まるで怒ってるようには聞こえない慎吾の声に
はっきりムカつく。
「あ、ごめん、ごめん」
また吾郎が慌ててそれを拾おうとして。
つい今しがた吾郎が落っことしたそれに、既に手を伸ばしていた慎吾の手に吾郎の手がぶつかる。
「いいって。吾郎ちゃんはもう晩ご飯の支度、して来なよ」
そっと押し留めるように。
一旦、自分の手に触れた吾郎の手を反対側の手で掴んで、慎吾はそのまま軽く押し戻した。
「え?あ、・・・・うん」
やっと吾郎は立ち上がって。
「拓哉兄貴、お帰りなさい。ごめん、すぐ夕飯の支度するね」
そんな風に掛けられた言葉に、けど、俺は何も返せずに。
「まー坊、風呂、入るぞ」
手にしていた弁当箱や何やを、無言のまま、半ば吾郎に押し付けるような形で手渡した後、
くるっと踵を返し。
一瞬、申し訳なさそうに翳った吾郎の表情には敢えて、気付かないふりを決め込んだ。
「なぁ、まー坊・・・・」
体も髪も洗い終え、2人して湯船に浸かりながら。
俺は半ばうわ言のように声を洩らしていた。
「んー・・・・?」
まー坊は気持ち良さそうに顔の半分ぐらいを湯に浸け、目だけでこちらを見た。
「吾郎と慎吾ってぇ・・・・何やってたか知ってる?」
「んー・・・・・」
まー坊は俺の質問にちょっと首を傾げ、薄く目を閉じた後。
「俺のズボン、破れてぇ・・・・」
「ズボン?」
「したら、吾郎と慎吾が何か色々、服とか引っ張り出して来てぇ・・・・」
「で?」
「それだけ」
「・・・・・・・・・・・」
なんだ、そりゃーーーーっ?
って気分だった。
何が何やら、さーーーっぱり見当もつかねぇ。
ズボンが破れた事と、2人してあーんな、くっつくような距離でわちゃわちゃと楽しそうに
・・・・・・・
それこそ、俺が帰って来る時間さえ忘れるぐれぇ・・・・・
何、やってたんだよ・・・・・・
何となくすっきりとしないもやもやを抱いたまま、まー坊を連れて風呂から上がり。
ダイニングテーブルの上には既に晩飯の支度は整っていた。
鶏肉のトマト煮込みにパスタが添えてあって。
後は簡単なグリーンサラダとこっくりパンプキンスープ。
・・・・・・ふぅん、て。
普段よか無意識のうちに少しゆっくりめに風呂に入った自覚はあった。
これから支度するんじゃ、そんなに慌てて入ったって・・・・・・
っつーより・・・・・・
時間、気忙しいんじゃねぇか、って・・・・・・・
俺が風呂から上がるまでに晩飯の支度、整えようと思ったら、って・・・・・・
だから・・・・なるべくゆっくりめに・・・・・
にしたって、たったあんだけの時間でこんだけの事、こなせるようになったんだなー、こいつも
って。
味もちゃんと。
「ちょーーーっ!吾郎ちゃん、どうしちゃったんだよー、最近、やたらと料理の腕、上げてない?」
いきなり慎吾がそんな声を張り上げ。
お前、つか、それ、メシ、何杯目だよっ!
それ以上、存在感ある体格になってどうするつもりだよっ!!
「ほんと、めっちゃくちゃ美味しいよ、特にこの、鶏肉?のトマト煮?スパゲッティーと合うよね」
スパゲッティー、ってお前・・・・
いや、そりゃ、スパゲッティーだけどよ。
間違っちゃいねぇけども。
せめて、パスタ、って言ってくれよ、剛・・・・・
無言のまま、もくもくとひたすら食べ続ける事が、その美味さの象徴とでも言わんばかりに。
口の周りを赤く染めて、無心に食ってるまー坊の口元を時折、拭ってやったりなんかもしながら。
「ん?味噌?味噌ベースか、これ」
色が明らかトマト煮だったから、てっきり洋風な味なんだろうって思ってたそれを、嬉しい
裏切り方をされた気分で。
「あ、やっぱ分かる?トマトと味噌って意外に合うみたいでさ。始め、僕もレシピ見た時には
半信半疑だったんだけど、思い切ってチャレンジしてみたら、意外にこれがイケた、って言うの?」
ふわん、と。
途端に嬉しげに零れた笑みが、柔らかく、仄かに周囲の空気さえ温めるように。
「イタリアンな素材で和のテイストって言うの?」
にこにこと。
そこからお得意の薀蓄に露骨に突入しそうな空気に。
俺はあからさまになり過ぎねぇように若干の配慮を心掛けながら。
「こう・・・・日本人に馴染む味、っつーの?美味いよな」
視線を真っ直ぐ。
吾郎のそれに重ねるようにして笑みを向ける。
「うん、ありがと」
微かにはにかんで。
嬉しそうに笑って。
吾郎はまた、確かめるように自分もそれを口に含む。
・・・・・つか、おま、まー坊じゃねぇんだからっ!
ちょ、気ぃつけねぇと、折角のシャツに染みが・・・・っ?!
内心でひやり、とした、正にその刹那。
スプーンから滴った真っ赤な雫がつー、っと一筋、吾郎のシャツの胸元を滑り。
丁度、真向かいの席から、実にタイミング良く?!その瞬間を目撃しちまった俺は、当然の
対応として・・・・・
「吾郎、シャツ、脱げ!」
その瞬間。
コンマ何秒かの間を置いて、それまで雑多に聞こえていたスープを啜る音だとか、野菜を
口ん中で咀嚼する音だとか、皿にスプーンが触れたりする食器のぶつかるちょっとした音だとか。
そうした食事風景の中に意識しなくても溢れてる音と言う音が、一瞬、消えて。
まるで、ストップモーションでも掛けられたように。
ぴた、と。
面白ぇぐれぇに、みんなの動きが止まった。
「ん?」
意味、分かんなくて。
首を捻った俺に。
「・・・・・・あー・・・・」
そんな誰の声ともつかない、納得を示したような、気の抜けたような、そんな声と同時に。
また、いつもの食事風景の音も戻って来て。
「んだよ?」
俺はさっきの一瞬の静寂の意味を知るべく、慎吾とか剛に視線を向けるが。
「別に」
「何でもない」
と、2人は実ににべもない。
「それよか、吾郎ちゃん、早くシャツ脱いだ方がいいよ。染みになるよ、それ」
慎吾が俺が言わんとした事を、もう一度、繰り返して。
「え?」
当の吾郎は慎吾のその一言にやっと、ゆっくりと自分のシャツを見下ろし。
「ちょーーーーっ?!?!?!?!」
初めて知ったその事実にあわくって、ガタン!と椅子を鳴らして立ち上がった。
「ごろぉってほーんと、食べんのヘタなー。ほら、赤ん坊とかが良くやってるエプロンとか
しとした方がいいんじゃねぇの?」
とても10幾つも年下とは思えない語調でまー坊がそんな風に言うのを、窘めるべきなんだろうけど、
本来は。
「染み抜きしないと拙いだろ。すぐ脱げよ。俺、やってやっから」
「え?あ・・、うん・・・・」
とか言いながら、それでもまだぐずぐずと。
「んだよ、マジ、取れなくなってもいいのかよ?」
堪らず俺はグイ!と吾郎の腕を引いた。
そのまま有無を言わせず洗面所まで吾郎を引っ張って行き。
「ほら、早くしろよ」
「・・・・・・う、うん・・・」
再度促しても、返事だけは辛うじて頷くものの、やっぱりぐずぐずといつまで経っても脱ごうと
しないでいて。
チラ、とほんの少し窺うようにこっちに向けられた視線が俺を映して。
「あ・・・部屋で着替えて来て・・・いい?」
「・・・・・・・・お前、なぁ・・・・・・」
呆れ果てるのを通り越した時、人はただ、脱力するしかねぇみてぇだって事、この時、俺は
妙に説得力を以って感じていたりもしたんだが。
「・・・・・好きにすれば?」
意味、分かんねぇよ。
え?何?
何がそんなに拙い事があんだよ?
兄弟の前で。
しかも、これが年頃の女兄弟だとか言うんだったら、それこそ「お兄ちゃん、セクハラ!!」
とか罵られて当然の場面であるかも知んねぇけど。
今のこの場合、どうよ?
至って、なーーーんの問題もねぇシチュエーションじゃねぇの?
・・・・・・ったく。
マジで意味、分かんねぇ、っつーの。
結構、普段着でも着るものには拘ってる風で。
俺の経済力から言って、そうそうご大層なモンには当然、手も出ねぇんだとしても、それでも。
そんな中から自分のお気に入りを見つけては、丁寧に大切に愛着をもって着てんだろうな、
って、何となく、そんな感じは感じてたから。
だから。
そんななけなしの一着が染みとかで着られなくなっちまったら凹むだろう、って。
つい、こっちが必死になっちまった、っつーか。
なのに、よ・・・・
何かバカバカしくなって。
俺は吾郎が戻るのを待たずに、ダイニングに戻った。
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