いつものように夕飯を終えて後片付けを済ませた吾郎が、リビングを出て行こうとする姿を
見止めた拓哉は、ふと違和感を感じた。
いつもなら、夕飯の後片付けの後も割合、リビングでのんびりしている事が多くて、大っぴらに
飲酒の出来る年齢になってからは、拓哉を誘って好みのアルコールをほんのりと嗜み、拓哉の
仕事の話に耳を傾けたり、また、末弟の正広の様子を色々、詳しく報告してくれたり、と
2人してそうした時間を持つ事がほぼ日常的になってもいて。
「ん、何?メチャクチャ締め切り、とか言う?」
その日本語の使い方が多少、おかしい事には自分でも気付いたけれど。
一時期、自分の部屋から一歩も出られなくなるほどに追い詰められてしまった元凶であろう
と思われるそれを、再び職業として今尚、続けている事に関して、どう言う経緯、心境から
そうする決断に至ったのか、結局、自分には何も知らされないまま、気がつけば、いつの間にか
吾郎はそうしてしまっていて。
その事を以前の険悪な感情で不満に思う事はなかったけれど、それでも、そうした部分で
吾郎がやはり、まだ、自分に対する信頼、と言うか、そうした事を相談しようとも思わない
らしい、と言う現実を目の当たりにもして。
寂しいような悔しいような思いに囚われた事は事実で。
それでも、そんな自分の思いを直接、吾郎に伝える事もせずにはいるのだが。
「え?」
拓哉の問いに驚いたように一度足を止めた吾郎は少しだけ首を傾げ。
「別に」
一言だけ呟いて、それでも、すぐにその姿を消してしまった。
あ、いや、だから・・・・・
と、その後ろ姿を呼び止める事も出来ず、それでも、自分が聞きたかったのはそう言う事じゃ
なくて、と内心で訴え掛けながら。
・・・・・・・なんだ、つまんねぇの・・・・・・
わざと幾分、乱暴にソファーに身を投げ出すようにして。
・・・・・・・俺も自分の部屋、戻るかな・・・・・・・
そう思い掛けて、また、腰を浮かせる。
リビングのテレビでは、吾郎が自分で思ってたよりは当たったみたいだから、と、振り込まれた
印税で弟達のために、つい最近になって購入して来た新型のゲーム機でゲームに興じている
弟達の姿があって。
思ってたよりは当たったらしい、その吾郎の作品が実はどういう作品なのか、拓哉はまだ
知らされていない。
吾郎がそれを職業として収入を得ている、と知らされてから、一度だけ聞いて見た事があったが
「俺がどう言うものを書いてる、とかさ。恥ずかしいからさ、何となく身内にはあんまり
知られたくないんだよね」とはぐらかされ、結局、今以て吾郎がどういったものを書いて
いるのかすら知らずにいる。
知ってりゃあ、出版される度に速攻、買い込んで、ダチや知り合いにも勧め捲るのに、とは
思いもするものの。
そうして弟達の大騒ぎしている様を何となく横目に眺め、リビングを出ようとして、入って
こようとしいてる吾郎とぶつかりかけ。
慌てて、身をそらしながらも同じく拓哉をよけようとして、よろけかけた吾郎を支えるように
腕を伸ばす事も忘れない。
「おっと」
あり過ぎる声が自然と洩れて。
軽くよろけた吾郎の背中を支えながら。
「んだよ?部屋に戻ったんじゃなかったのかよ?」
そんなに広くもない入り口でほとんど重なるような至近距離から、それでも、拓哉は吾郎に
真っ直ぐ視線を当てた。
「これ、取りに行ってただけだから」
そうして吾郎は手にしていた鮮やかなイエローのナイロン製っぽい手提げ袋を示して見せて。
「ん?」
何となく懐かしく、身覚えもあるようなそれに、少しの間、注視した拓哉は唐突に「あっ!!」
と声を張り上げ、間近にいた吾郎の耳を塞がせたのはもちろん、リビングの奥でゲームに
興じていた弟達の注目まで集めてしまい。
ごほ、と分かり易く軽い咳払いでその視線を払い除け。
「なっつかしいなぁ。何、今もそう言うの、使ってんのか?」
そうして、吾郎の手にあったそれを半ば奪い取るような勢いで手にし。
「・・・・う!」
想像以上の重量感に思わず吾郎の顔を窺う。
「ふふ。結構、重いでしょ?教科書とかね、他にも色々入ってるからね」
吾郎の説明に拓哉はそれを手にしたまま、目線でそれをどこに運ぶのか吾郎に尋ね。
吾郎がダイニングテーブルに向うのを見て、そのテーブルの上にそれを置いた。
「いい天気で良かったな」
吾郎の向かいの席に腰を下ろし、改めて笑みを投げた拓哉に。
「うん。サクラが凄く綺麗でね。とてもいい入学式だったよ」
吾郎もまた、やんわりと微笑んで簡単にそんな報告を返して。
でも、そこに、吾郎は吾郎で敢えて拓哉に伝えたくはない思いを噛み締めてもいた。
全部が全部では、もちろんなかった。
中には祖母と思しき女性に連れられて、だとか、父親の姿を見ないでもなかった。
けれど、父親の姿は大抵はビデオカメラを構えていて、新入生の子供の隣には当たり前に
母親の姿があって。
そう言う中で幼い弟が自分だけはそうでない事をどう感じるだろう、と。
負い目とはまた違うのだとしても、すっきりと晴れやかな気分で諸手を上げてその弟の入学を
嬉しく思ってやれる気持ちには翳りが指す。
入学そのものはとてもおめでたくて嬉しい、と感じるけれど。
「そ、か・・・・・・・」
感慨深げに拓哉は一言だけ頷き。
「意外にまーくんが緊張しててね。ふふ、そうだ、デジカメで色々と撮ったから見る?」
思い立ったように笑顔を浮かべた吾郎に。
「や、そりゃあ、見てぇけどよ。でも、お前、何か用があんじゃねぇの?」
テーブルの上で一際、黄色く存在感を示すそれを指して。
「あ、そうだった。これ、やんなきゃなんないんだよね」
思い出したように吾郎は、ダイニングテーブルの上にそのカバンの中に入っていた諸々のものを
取り出して並べ。
教科書、お道具箱、名札や体操服といったものが次から次へと取り出されて、そんなちょっと見は
チャチなカバンの中に一体、どんだけのモンが詰まってたんだよ?!と一瞬、拓哉を驚かせ。
道理で重いはずだ、と同時に納得もさせた。
「何すんの?」
並べられたそれらのものを前に拓哉は当たり前の疑問を投げる。
「名前を書くんだって」
「全部?」
「うん、全部。でね、こう言うプラスチック製のものに書く時は消え易いから、名前を書いた
上からセロテープを張って下さい、だって」
「ふぅん・・・・・・・・・・」
恐らく、自分も小学校入学当時には母親がおんなじ事をしてくれたんだろう、と、全く記憶には
ないながら、そんな事にふと、思いを馳せて。
「自分達の時もさ、ママがこうして名前を書いてくれたりしたんだよね」
ほとんど同じタイミングで、まるで自分の思っている事が吾郎にも伝わったかのように、
そんなセリフを口にした吾郎に、拓哉は驚き、そして、何とも言えない嬉しいような、少し
くすぐったいような気持ちを感じつつ。
「おぅ。全然、覚えてねぇけどな」
そう相槌を打つと。
「僕はね覚えてる。ずっと隣にへばりついて見てたから」
薄っすらと照れ臭そうに笑って、それでも、その眼差しの中に微かな寂しさも滲ませて。
「凄い邪魔だったろうと思うよ。もし、今ここにまーくんが来て、隣から覗き込まれるのを
想像しただけでも、正直、鬱陶しいって感じるしね。けど、ママは何も言わずにさ・・・・・・・・」
そこまで口にして、ふ、と言葉を途切れさせた吾郎に、先ほど感じた嬉しいような気分は
あっと言う間に霧散してしまい。
「俺・・・・・・いつも、いつも、ママの邪魔ばっかりしてた気がする・・・・・・俺がそんな事
しなきゃ、もしかしたら・・・・・・・」
いつも「僕」と口にしていた吾郎の一人称がとても珍しい事に「俺」に変わった事に拓哉は
ほんの僅かな痛ましさと、それを遥かに上回る気持ちの満たされる感覚を感じながら。
それは無意識のうちに洩らされた吾郎の紛う事のない本音に思えて。
「嬉しかったんじゃねぇの?」
「え?」
「おふくろはぜってぇ、嬉しかっただろうと思うぜ」
「・・・・・・・そ、かな・・・・・・・・」
「すんげー可愛くて可愛くて、どうしようもねぇぐれぇ可愛いって思ってる相手が、ずっと
傍に居て自分の事、見てくれてたとしたら、それってすっげー嬉しいと思う」
「・・・・・・・・それって・・・・・・・」
「お前だけじゃなくて、おふくろの方だって、お前の事、好きで可愛くて堪んなかったん
だから、そんなお前がいっつもずっと傍に居て見ててくれて、おふくろは嬉しかったと思う」
こちらに向けられた潤みがちな瞳が、更に多めの水分を蓄えてゆらゆらと揺れた。
「そうかな・・・・・・・」
それでもまだ不安げに、拓哉の目の中をじっと見詰めて来る瞳に。
「そうだっつってんじゃん」
敢えて語調も強く、拓哉は断言した。
「・・・・・・・・だとしたら少しは俺も救われる気がする、かな・・・・・・・・」
ずっと、そんな風に。
どう考えても、そんな事は両親の他界とはまるで無関係に思えるそんな事まで気に病んで
悔やんで来たのだろうか、と。
それは、拓哉にとっても余りに辛い現実だった。
「あ、でもさ・・・・・・僕、別にまーくんの存在を疎ましく感じてる訳じゃないって言うか
・・・・・・可愛くて大事だって・・・・・・今はだいぶ、そう思えるようにもなって来たって
言うか・・・・・・・」
そんな風にしてわざわざ釈明して見せる吾郎が、それはそれで可愛い気がして。
「誰もんな事ぁ言ってねぇっつーか?おふくろがお前を思ったのとおんなじ気持ちでお前が
まー坊に接しようとしてんのは、俺も知ってっけど。一足飛びには行かねぇっつーの?自分の
腹を痛めて産んだ我が子に対する愛情?それを、どんな事があったって、ぜってぇ一生、
出産なんて事を経験出来るはずもない男の俺らが感じる事自体に無理がある、って、お前は
そうは思わねぇ訳?」
「・・・・・・まぁね、理論としては確かにそうなんだろうけどね」
「お前は良くやってる。それは周りの人間も十二分に認めてる。まー坊だってちゃあんと
知ってて分かってんだから、それでいいんじゃねぇの?」
「・・・・・・・ん」
漸く、こくっと素直に首が縦に落ちて。
「そうそう、名前、書くんだった」
また振り出しに戻ったような、いや、漸く、スタートラインに立った気分で、少しだけ表情の
解れた吾郎に、拓哉はほっと胸を撫で下ろす。
手始めに大き目の粘土板や粘土ケース、傘や教科書などそうしたものに、少し角張った丁寧な
字で名前が刻まれて行く。
そんな様子を眺めつつ、今日はアルコールは控えて、吾郎のお気に入りの紅茶でも淹れてやろうか、
と拓哉は台所に立った。
そうして、2人分の紅茶を淹れて戻ってみれば、吾郎は細かな花形の半分と思しき形のシールに、
せっせと小さな文字で名前を書き込んでいる最中で。
ざっと見ただけでも数十枚はありそうな細かなそれは見ているだけでもうんざりして来る気がして。
こんな根気の要りそうな細かな作業を、黙々とこなしている吾郎に少し驚き。
「にしても、良かったよなー、うちの苗字が須磨で」
「何で?」
顔も上げず、相変わらずせっせと左手を動かしている吾郎の問いに
「す、ま、って平仮名2文字で済むじゃん。これ、稲垣とかだったりしたら、そのちっこい
シールに延々といながき、いながき、って書き続けなきゃなんねぇんだぞ」
そんな説明を返した拓哉に、ふと、吾郎は顔を上げ。
「どっから、稲垣って出て来んの?」
「や、ちょい?何となく?」
「ふふ。案外、今、付き合ってる彼女の苗字、だったりしてねぇ?」
タチの悪い笑みを浮かべ、じっと窺うように真っ直ぐに視線を当てて来る吾郎に。
「バカな事、言ってんじゃねぇ、っつーの。ほら、紅茶・・・・・・・」
さっさと話題を転換するように、拓哉は吾郎の作業の邪魔にならない位置にティーカップを
勧めた。
そんな拓哉の態度にあっさり再び、視線を落とし、引き続き作業にかかったはずの吾郎から、
唐突に「もうっ!!」とキレた声が炸裂した。
「は?」
今の今まで静かにおとなしく作業に勤しんでいたと思った吾郎は、その細かなシールを台紙から
はがし、プラスチック製の小さな花形のおはじきと呼ばれる教材に貼ろうとした所で、件の
声を発したようで。
「んだよ、突然」
見ると、おはじきに貼られるべき、それがどういう経緯からか、吾郎の指にぺったりとくっつき、
それを剥がして再び、おはじきに貼ろうとしても為せず、イラついた吾郎があっさりそれを
放棄して。
「拓哉兄貴、やって!」
上から目線で、けれど、それは昔のように頭っから拓哉を否定して見下げて来ていたそれとは
全く異なり。
まるで、甘えているかのように感じられた語調に、思わず頬が緩んだ事は知覚出来た。
「たく、しょーがねぇなぁ」
それでも、ほい、来た!とばかりその命に従うのは、兄として沽券に関わる、とは感じて。
敢えて、表面上では仕方なく、面倒臭そうなポーズを纏い。
けれども、結局、いそいそと、吾郎が投げ出してしまったそれを手にしていて。
どんどん、着実に細かなおはじきに、吾郎が名前を書き込んだシールが貼られて行くのを、
吾郎は紅茶を味わいながら眺めていて。
全てのおはじきにシールを貼り終えたのを見て。
「ありがとう、拓哉兄貴」
にっこりと。
向けられた満足そうな笑みに、つい、こちらも笑顔で応えてしまう。
「えっと・・・・次は・・・・・・」
そうして、また、吾郎は次の課題に取り掛かるべくペンを手に取り。
残っていた幾つかのお道具類の全てに、それでも、ちゃんとどうなりこうなり記入を終えた後で。
まるで今日のメインイベントと言わんばかりに吾郎はゼッケンと体操服を取り出して。
マジックでゼッケンに名前を書き込み、それを体操服に縫い付けて行くらしいのだが。
眉間に僅かに皺を寄せて。
真剣な眼差しで裁縫に対峙している吾郎の鼻梁の通った綺麗な横顔に、我知らずじっと視線を
縫い止められてしまっている拓哉に気付いているのかいないのか、吾郎はただ、必死に不器用な
指先を動かしていて。
「あっ、・・・・っつぅ・・・・・・」
ビクリ、と一瞬、吾郎の肩が震え。
指先が動きを止めた。
「ちょ、大丈夫か?見せてみろ」
すかさず、吾郎の針を持っていた方とは反対の手を取り上げるようにして自分の方に掴み寄せ。
プクリ、と小さく真っ赤な液体が盛り上がって来るのを、舌先で軽く舐め取り、すぐに口の
中に含んで。
ちゅ、と。滲み出る液体を吸い取るようにして。
「消毒して絆創膏貼っときゃどうって事ねぇから」
唇からそうして吾郎の指先を抜き取り、出血が収まった事を確認した後、
「ちょっと待ってろよ」
すぐさまリビングのボードの上に仕舞ってある救急箱を取り出し。
消毒薬を振り掛け、息を吹き掛け乾燥させた後、絆創膏を貼って。
「これで良し、と」
もう一度、救急箱を仕舞いに立ち、戻った拓哉は見上げて来る吾郎の視線を感じて「ん?」
と首を傾げて見せた。
拓哉と視線がぶつかり、吾郎はまたすぐ視線を逸らし再び、体操服を手に取り。
「大丈夫か?」
顔を覗き込んだ拓哉に吾郎は幾らか諦めを含んだ眼差しを向けて。
「拓哉兄貴、やって!」
先ほどと似た声音で押し付けるようにしてそれを拓哉に差し向ける。
「ん」
今度は簡単に請け負ってそれを引き取り。
吾郎とは違って鮮やかな手つきで手早く作業を進めて行く拓哉を、いつの間に手にしたのか、
淡い透明に近い液体を満たしたワイングラスを手に、重なりそうに近い距離から吾郎がその
手元をうっとりと見詰めている。
やがて、ほぼその作業も終わりを告げる頃。
「ねぇ、拓哉兄貴?」
吾郎が拓哉に呼び掛ける。
「ん?」
「どうしてなのかなー、と思って」
「何が?」
「僕ってさ、はっきり不器用じゃない?それでさ、拓哉兄貴、そう言う僕を見てるとイライラ
するのかして、大体の時はさ、速攻で僕からそれを取り上げるでしょ?」
「・・・・・・・取り上げるって、おま・・・・・・」
若干、苦笑を滲ませて言葉を詰まらせた後、拓哉は
「いや、コツ?だとか、そう言うのを、だな、お前に教えてやってぇ・・・・・・」
そんな弁明を唇に乗せて。
「とか言いつつさ、説明しながら、ほとんど全部、自分でやっちゃう事がほとんどじゃん?」
図星を指されて拓哉は今度こそ言葉を失った。
「なのにさ、どうして?どうして今日は僕がやって、って言うまで手を出さなかったの?」
手を出さなかった、と言う言われ方が幾分、勘に障ったけれど。
「お前が自分でやりてぇって思ってんじゃねぇか、って思ったから」
「え?」
「苦手でも不器用でも何でも。お前はまー坊のそう言う事、してやりてぇって思ってんじゃねぇか、
って思ったから。おふくろが俺らにしてくれたみてぇに」
「・・・・・・・・・拓哉兄貴・・・・・・・」
吾郎の唇が小さく拓哉の名を呼んで。
そして、噤まれて俯いてしまった吾郎の様に。
その仕草の訳を聞いてみたい衝動にも駆られながら。
拓哉は伏せられた吾郎の耳に掛かる柔らかそうな癖毛と、その小振りな頭を支える少し大人びて
しっかりして来た首筋をただ眺めていた。
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