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・・・・・・・・だから、放課後はダメって言ってんのに・・・・・
肌蹴た制服を元に戻し、髪に残る匂いを払うように、何度か髪をかき上げ。
けだるげに開いた携帯が示す時刻に、眉間にあらかさまな皺を刻んで。
・・・・・・・・こんな事してたからって・・・どうなるもんでもないって、分かってる・・・・・・
自分に対して言い訳するように、胸の中でそんな呟きを洩らし。
洩れる溜息と同時にゆらり、と身体を起こす。
・・・・・まーくん、迎えに行かなきゃ・・・・
心底から満たされて、心地いいと感じられている訳でもない脱力感を纏い、ゆっくりと足に
力を入れて踏ん張る。
・・・・・だっるー・・・・
もう一度、溜息を吐いて。
腰を支え。
のろもた、と。
踵を踏んづけたままの上履きを引き摺るようにもして、数歩進めた歩は、間もなく、結構
早足になり、やがて、校門を出、自転車置き場に向う頃には、そこそこの速度にも達しても
いて。
いつにない速度で更に自転車を漕いだ足は、普段からの運動不足を如実に語って、早々に
悲鳴を上げる。
それでも、続けられる限りはなるべくその速度を保ったまま、保育園に突っ込むような
勢いで自転車を乗り入れ。
建物の入り口から見える位置で1人、先生と絵本を眺めている幼い弟の姿が視界に入る。
はぁはぁと整わない呼吸を乱して、膝に手を置いたまま声さえ挙げられずにいる自分に
先に気付いたのは正広の方で。
「ごろぉ!」
途端に駆け寄り飛びつこうと目一杯広げられた両掌を向けて。
それまでのつまらなさそうな、寂しげな顔つきとはまるで別人にさえ思える満面の笑みで。
一心に自分に縋りついて来る、自分に向けられる真っ直ぐな眼差しを吾郎は冷めた目で見る。
・・・・・こう・・・人間のDNAに組み込まれた生存本能って言うのはさ・・・・・何て
言うか・・・・・今のこいつにとっては・・・大袈裟に言えば俺の存在が生命の維持に繋がる
一本の糸って言うか・・・・・だから、いつだってこいつはさ、こんな風に・・・・・俺
みたいな・・・・俺がいつもこいつの事どう思ってるか、とかそんな事はまるで関係なくて
・・・・それでも、一心に・・・・・こんなに必死に、とか・・・・・バカじゃん・・・・
わざと思考の中でそうした考えを弄びながら、目を背けたいのは、そうして、一心に自分を
求めて伸ばされる手に感じる痛みでもあって。
「良かったわねぇ、まーくん。お兄ちゃん、遅くなっちゃったからって、一生懸命走って
来てくれたみたいよ」
膝についた手元にそっと、水の入ったグラスを差し伸べながら、正広のクラス担任の先生が
やんわりと微笑む。
「いいお兄ちゃんね。学校、忙しいのに、こうして毎日、まーくんの事、お迎えに来てくれて」
そんな言葉が胸の中に冷ややかな、綺麗じゃないものを運んで来る。
「・・・・・・そんなんじゃ・・・・」
唇から洩れ掛けた言葉を、それでも、続ける事も出来ずに。
「あっ、そうそう」
そうして、不意に先生は思いだしたように嬉しそうな声を上げ。
「今日、まーくんが描いてくれたんだけど」
そう言って、一旦、職員室に戻った先生が何枚かの画用紙を手に、再び戻り。
「自分の1番、好きなものを描きましょうって言って描いてもらったものなんだけどね」
先生がそう言いながら、こちらに向けた画用紙には黒い髪の黒い服の、多分、これは人間、
男、かな?と理解出来る程度の絵が描かれてあって。
「吾郎くんですって、これ」
自分よりはさすがに幾つかは年上の、それでも、まだまだ若い先生が悪戯っぽく自分の
反応を窺っているのを感じる。
「・・・・・・・へぇ」
「上手に描けてるでしょう?特徴を良く捉えてあって」
と、言われても、正直、自分にはどこをどう特徴を捉えて描かれてあるのか、皆目、検討も
つかないぐらいではあったけれど。
「後、もう1枚はこれ、なんだけど」
続けて、まだ持っていた方もこちらに差し向け。
「まーくんと、拓哉お兄さんと吾郎くんと剛くんと慎吾くん、ですって」
正広を中心にして右隣に拓哉と慎吾、左隣に吾郎と剛が描かれているらしい、今の先生の
指差しが示す順番通りに描かれてあるのだとすれば。
「まーくんの1番好きなもの、なんですって」
先生の声が酷く幸せそうで、それをこちらにまで強要されているようにも感じられて、吾郎は
正直、戸惑いを隠せない部分がない訳でもなかったけれど、それでも。
「他の子はみんな、テレビの人気キャラクターや、玩具とか食べ物だったのに、まーくんは
家族の絵を描いてくれて」
「・・・・・・・・・・」
「吾郎くん達が頑張ってくれてる事、まーくんはまーくんなりに感じてるのね」
そんな風に言われてしまって、今、自分の中にある凶悪などうしようもない感情を、一体、
どこにぶつければいいんだろう、と、吾郎は途方に暮れる。
そんな・・・・・他人が想像するような綺麗な生易しい関係でも環境でもないのに。
自分はそんな風に正広から思われるほどの事は何もしていないし、そんな温かな優しい気持ちを
向けた事もない。
嬉しさよりも悔しさや虚しさ、投げ出してしまいたい本音が突き上げて来る。
自分がどんなに頑張っても、決して、母親の代わりになんてなれるはずもない。
「・・・・・・・帰ろ」
当たり前に自分の中に手を預けて来る小さなそれを、時には酷く疎ましく感じている事にも、
まるで気付かないように。
きゅっと小さく握り締められて、それを本当だったら包んでやるべきだと言う事も知っていて、
それでも。
「せんせ、バイバーイ!」
反対側の手を懸命に振って、自分の手を握っている手は相変わらず、一生懸命に力が込められて
いる。
「・・・・・・ごろぉ?何か手、熱くねぇ?」
ふと、そんな風に問い掛けられて、昼過ぎから感じていた悪寒が示していたものに改めて
気付かされる。
寒くて。
それが身体的なものが示すものなのか、ただ、心がそう感じているだけなのか、両親が他界
してしまってからは、自分でも良く分からない事がちょくちょくあったりもしたせいで。
ただ、寒くて。
だから、温まりたかった。
温かさを感じさせてくれるものが欲しかった。
柔らかで温かでいい匂いがして・・・・・・
けれど、それは酷く刹那的で、虚しくて、寂しくて・・・・・
何も埋められない、と思う。
そう思うのに・・・・・・それでも、自分はそんな見せ掛けの温もりでも、欲しくて・・・・
「・・・・・ねぇ?いい?」
明らかにそれと分かる色を浮かべた顔つきでそう問い掛けられて、断るのが面倒な程度に
酷いだるさを感じてはいた。
そして、寒くて。
温まれるかな、と。
ふと、そんな思考も浮いて。
「ねぇ、ちょっとはサービスしようとか言う気、ないの?」
「誘って来たのはそっちだろ・・・・・ヤなら止めれば?」
「ひっどぉい!」
そこで終わるのかと思いきや、意外に続いて・・・・・・
僅かに呆れた嘲笑が浮かぶのを禁じ得なかったのも本当で。
「・・・・・・ねぇ、須磨?アンタ・・・・大丈夫?」
事の後で、ふと不安げな眼差しを向けられた。
「・・・・・・何が?」
「何がって言われると、何って答えられるほどのものもないんだけど・・・・何となく?」
「ふっ。何となく心配してくれてありがと。・・・・もう、用は済んだんでしょ?行けば?」
その自分の言い方が相手を傷つけたのかも知れない、と言うのは、向けられた視線の険しさの
向こうで噛み締めた唇がほんの少し震えていたせいかも知れない。
「・・・・・・・ごめん」
そんな風に言うつもりは本当はなかったから。
唇の中に洩らした呟きは、けれど、当然、その場を走り出て行ってしまった彼女の耳に
届こうはずもなかった。
「今日の晩ご飯・・・・カレーでいいよね」
「カレー、しゅきっ!」
自転車の後ろに乗せた正広のテンションが普通に上がって。
帰りにスーパーに寄りレトルトのカレーを人数分買い込む。
時折、何かの拍子に目の前が薄くフェードアウトして行きそうになる感覚を、誤魔化し誤魔化し
しながら。
「まーくん・・・・悪いけど、俺、今日、パッパって済ませたいからさ、ちょっとの間、
リビングで・・・あ、場所はどこでもいいけど、適当に1人で静かにしててくれる?」
「ん、分かった」
神妙な顔つきで頷いて、正広はおとなしく、それでも、吾郎の後をついて回る。
そうして、傍をうろうろされる事そのものが邪魔なんだ、と。
浮かんだ思考をそれでも、呑み込み。
必要最低限の事だけを済ませ、本当は早々に自室に引っ込んでしまいたい所を、それでも、
正広を1人っきりにさせておく訳にも行かず。
早く誰か帰って来いよ、と、念じるようにリビングのソファにぐったりと身体を預ける。
「ごろぉ?」
ぴったりとくっつくようにして隣に座り、一生懸命に顔を覗き込んで来る小さな眼差しに
ただ、軽く溜息だけを返して。
身体の節々や頭が徐々に痛み始めるのを知覚する。
「ただいまー!」
玄関で剛の声がするのと同時に、ぐらりと揺れる視界をどうにか堪え、吾郎はのっそりと
立ち上がり。
「剛、帰って来たみたいだからさ・・・・俺、部屋で勉強して来るから。夕飯は適当に
自分達で食べてって言っといて・・・・・」
正広にそう言付け、返事も待てずに階段を上り、そのまま自室のベッドに雪崩れ込むように
して潜り。
吐き出した息は酷く熱かった。
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