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大人しく寝ている、と約束はしたけれど。
拓哉と正広を送り出し、2人が玄関を出るのを待ちかねるようにして、吾郎はベッドから
起き上がり、薄いシャツをパジャマの上から羽織って。
しっかりと手摺りに捕まり、一段ずつ確かめるようにして階段を下りる。
ベッド脇の窓辺に立った時には、さほど感じなかったけれど、こうして部屋を出てほんの
少し移動するだけで、目の前が揺らぐような、心許ない危うげな自分の足元に、正直、自分が
1番、驚きもしたけれど。
熱は下がっているようで、昨夜の事を思えば、身体は全然、楽になったと感じていた。
それなのに・・・・・・
拓哉が口煩いほどに1人では寝かしておけない云々と口走っていた事の意味を改めて知る
思いで。
確かにこんな調子だと幾ら既に作り置きしてくれているとは言え、一々、下まで降りて1人で
支度を整えて食べる、と言う行為だけでも十二分に煩わしい気がして来る。
昨日も高熱のせいで拓哉が拵えてくれたたまご粥を、それでも、結局、ほんの少し口にした
程度で、後はひたすらアルカリ飲料を口にしていたに過ぎない。
それでも、今日もまるで食欲も空腹も感じられず。
折角、用意してくれたのに食べないと悪い、と言う程度の思いだけでそれらを食べようと
いうほどの気力は、残念ながら湧いてきそうにもなかった。
・・・・・はぁ・・・・
独りでに洩れる溜息を、ゆっくりと吐き出し、また、一段、また、一段、と、それでも
吾郎をそうして動かすものは。
やっとの思いで階下に辿り着き、リビングのちゃんと戸締りされているガラス戸の鍵を
開けて。
そこにあったサンダルに素足の足を通して、自分でももどかしいほどゆっくりと、吾郎は
庭に下りた。
そこには打ち捨てられたように誰にも見向きされない、かつて、母が大切に丹精していた
花壇が、はびこる雑草や枯れ草、そしてゴミにまみれた惨状を呈していて。
それでも、そんな中でも雄々しい生命力を見せる新しい芽が、既に幾つか蕾を膨らませている。
正広が摘んだらしい一輪の茎もそこに残されていて。
ゴミを拾い、幾つか雑草を抜いて。
「・・・・・・ごめんね」
独りでに言葉が洩れる。
「・・・・・・元気になったら・・・今度はちゃんとやるからね」
一旦、屈み込んだ身体をもう一度、立ち上がらせるだけでも、自分1人で出来るんだろうか、
と不安に感じられるほどに、体力は限界を訴え掛けて来ているようで。
・・・・・・・はぁ・・・・・
また、溜息だけが洩れる。
ペタン、と。
立ち上がるつもりで、けれど、自分の身体は自分の意に反して座り込んでしまい。
・・・・えー・・・ちょ・・・これって・・ちょっとヤバくない・・・・?
意外に呑気にそんな感想が内心で洩れるのを聞いて、それがある種の危機回避、現実逃避
である事に薄々感づいてはいても。
唇から零れ落ちる呼気が徐々に熱く乱れを帯びるようでもあって。
はぁはぁと整わない呼吸に視界が滲み始める。
・・・・・・え、と・・・・うち・・入って・・・ベッド・・・・
ままならない思考をどうにか働かせて、そんな程度の事は思いはしても、身体はそんな
自分の意志に反応してくれそうな気配は、残念ながら見えない。
それどころか、本能がそれでも1番、楽な姿勢を求めるように、身体はゆっくりと沈み込む
ようにして傾いで行き。
頬に冷たい土の感触を感じた辺りで意識は、薄くフェードアウトして行った。
ペチペチと頭の中で何か音が響いていて。
頬に鈍い痛覚を感じ。
重い瞼を薄く開けた先にあった鬼のように強張ったその人の顔が何かを懸命に叫んでいる
風なのを、ぼんやりとした聴覚と意識が捉えるより先に、ふっと、また、感覚が遠のき。
・・・・・拓哉、あに、き・・・・?
鬼のような形相がその人のものだ、と言う認識から殊更、逃げようとするかのように、再び、
意識は途切れた。
酷い暑さの中で喉がひりつく感覚に重い意識が僅かに覚醒する。
薄く細く開いた視界には、意識を失う寸前に目にしたその人の姿がやっぱりあって、思わず、
反射的に身体を起こし掛け、けれど、やはり、それは叶わず鉛のように自由にならない身体は
ベッドから数センチ背が浮いただけで、また、そこに縛り付けられるように沈んだ。
と、その直後、パン!と乾いた音が耳元で鳴り、同時に熱を持った頬が更に熱を帯びて、
じんとした痛みを訴え掛けて来る。
それは更に、頭痛をも呼び起こして顰めた眉に、自然と涙が浮いた。
「痛ぇだろ」
分かりきった事を問うように、想像したよりは静かな低い、けれど、重い声が届いて。
痛む頬にゆるゆると手を当てたまま、無言で微かに頷く。
「痛ぇように殴ったんだからな、当たり前だ」
何かを懸命に押し殺そうとしているような兄の態度に、吾郎は自分の懸念をぶつけた。
「・・・・た、くや・・あに、き・・・しご、と、は・・・?」
「行ける訳ねぇよな?大人しくベッドで寝てるはずの弟が、庭先の花壇の前の地面で這い
蹲ったりだとかしてたんじゃあな」
「・・・・・・・ごめん、なさい」
「たまたま俺が?忘れ物、取りに戻ったから良かったようなもんの?じゃなきゃ、お前、
冗談抜きであそこで肺炎とか併発してな、それでなくても、それまでの不摂生?乱れた
生活?のせいで、お前の身体、お前が自分で思ってたより、全然、弱ってた、っつーの?
俺がもし、あの時点で気付かなかったとしたら、あの世に行っちゃってても全然、不思議じゃ
ねぇ状態だったんだと、お前」
はっきりと呆れた様子を隠そうとさえせず、それを伝えて来る拓哉は、酷く悔しそうだった。
「答える気がなきゃ、答えなくてもいいけどな・・・・お前、もしかして、本気であっちに・・・・
親父やお袋の居るとこに行きてぇ、とか思ってた?っつーか、今も思ってんの?」
兄が無理矢理、感情を押し殺そうとしている空気がありありと伝わって来る。
「・・・・ちが・・・・」
喉に声が絡まって上手く声が出ない。
何度か小さく咳払いをした後、改めて。
「違う」
それだけはちゃんと、拓哉に伝えたくて、殊更、真っ直ぐに拓哉の瞳を見詰め、もう一度
言葉にした。
「・・・・・ただ・・・まーくんが・・・花、摘んで来てくれて・・・・ママが大事に
してた花壇・・・の、事・・なんか・・俺・・全然、忘れ、てて・・・・それで、思い出し、
たら・・・どう、しても・・・行かなくちゃ、いけない、気、がして・・・・」
眉間に皺を刻んだまま目を伏せ、深く大きく長く、拓哉が息をつくのを、ただ、見詰めている。
「・・・・・信じていいんだよな、今のお前の言葉」
そうして、瞼を持ち上げた拓哉の視線もまた、真っ直ぐに自分を捕らえ。
「うん」
はっきりそう、と分かるように、吾郎は懸命に首を縦に落とした。
「・・・・・ま、ぜってぇおとなしく寝てるって約束しておいて、庭でぶっ倒れてるような
ヤツの言う事なんか信用出来ねぇけどな」
皮肉るようにそう言って、それでも、拓哉は肩から少し力を抜いた。
「3日間の強制入院、な」
「・・・・え?」
言われて漸く、そこが普段の見慣れた自分の知っている空間じゃない事に気付く。
「・・・・・・・ごめん・・・・迷惑、掛けて・・・・・」
「全くな!あのまま大人しく寝ててくれりゃあ、こんな事にならずに済んだものを」
「・・・・・・・うん」
「・・・・・・一緒に暮らしてて、こんなになるまで気付かずにいるなんて、信じられない、
だとよ」
手近にあったパイプ椅子をギッと嫌な音を立てて引き、乱暴に身体を投げ出すようにして
腰を下ろした拓哉が低く弱い口調で綴ったセリフに、吾郎は少しだけ目を見開く。
「・・・・誰、が?」
改めて、聞かなくても想像がつかない訳ではなかったけれど。
「・・・・・・医者」
「・・・・・・うん」
「親御さんはどうされてるんですか?だとさ」
「・・・・・・・ごめん」
「何でお前が謝ってんだよ」
「拓哉兄貴のせいじゃないもん。俺は拓哉兄貴の言う事になんか耳を貸さなかったし、俺が
勝手に好き勝手やってて、こんな風に風邪、引いちゃったのだって自分の責任で・・・・・
拓哉兄貴はちゃんと自分の責任、果たしてくれてたのに、俺のせいでそんな嫌な事、聞かされて
・・・・・・・・・」
そんな風に、吾郎が懸命になって自分の弁護をしてくれる、なんて、本当は全くも想像も
していなかったせいで。
思わず、まじまじとそんな吾郎を注視してしまっていた。
「今日も・・・俺がちゃんと言う事聞いて、大人しく寝てれば・・・・・」
本当に申し訳なさそうにうな垂れて、そんな自分の過失を明らかに悔いている吾郎の語調に。
「寝てたとしても、多分、結果はそんな変わんなかったんだろうよ。ただ、寝てるだけで
お前は多分、結局、自分の食う事でさえままならねぇ状態のまま、1人で・・・・・・・」
拓哉が声を詰まらせる。
「仕事はもちろん、大事だし責任持ってこなして当たり前だけどな、それでも、仕事より
優先させなきゃなんねぇもんが、ぜってぇあるって」
「・・・・・・・・・」
「仕事場に自分の代わりは居ても、家族にとっての自分の代わりってのは、どこにも居ない
って。俺がそこで家族として果たさなきゃなんねぇ責任もあるって」
「・・・・・・・・・・」
「確かにお前はもうガキじゃねぇし、たかが風邪ぐれぇで一々、休んでなんか居らんねぇ、
って思ったのもほんとだ。自分の面倒ぐれぇ自分で見れるだろうって内心でタカを括ってた。
お前が本当はどれぐれぇ弱ってるか、なんて事までは、それまでお前の事、まともに見ようとも
して来なかった俺には想像もつかなくて。寝てりゃ治るだろうぐれぇに安易に考え過ぎてた」
「・・・・・・でも、それは・・・・」
「お前が・・・・俺に面倒見られんの、嫌がってる風なのも分かってたから余計に・・・・」
本当の事をぶっちゃけてしまえば、その事が自分にとってはやはり、最大の苦痛で。
けれど、それも、これまでのお互いの関係性から言えば無理からぬ事でもあって、少しずつ
時間を掛けて、また、お互いに歩み寄りながら修正して行くしかない、とも思っても居た
矢先だったから。
「けど、どんなに嫌がられてんだとしても、俺はそこから逃げちゃいけなかったっつーか。
どんなに鬱陶しがられたんだとしても、俺はそこで踏ん張って堪えて、自分の責任、果たさなきゃ
なんなかったんだ、って」
自分は確かに吾郎の親、と言う訳ではないにしても。
兄として、家族として、そこから目を背けて居てはいけなかったのだ、と気付かされた。
「だから。お前の言う事、鵜呑みにして放任しちまった俺の責任」
「・・・・・拓哉、兄貴」
「社長に怒鳴られたっつーの。そんなに具合の悪い弟放っといて仕事もへったくれもあるかって。
で、さっきのな、仕事場で俺の代わりなんか幾らでも居るっつってくれて?」
「・・・・・うん」
「ま、そう言う訳だから。お前にとっちゃ有難迷惑だろうけど?俺は俺で、俺がちゃんと
果たさなきゃなんねぇ責任?果たさせてもらうつもりで居っから」
嫌に力強く断言されて、若干の不安が吾郎の胸をよぎらないでもなかったけれど。
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