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自分の部屋のベッドでこんな風にゆっくりと、比較的穏やかな気持ちで朝を迎えたのは、
両親が他界してから、もしかしたら、初めてかも知れない、と思う。
ここが自分の部屋だ、と。
そんな当たり前な認識を改めて、極素直に受け入れられる感覚。
自然にそう思える感覚は、自分にとって、何だか随分と久し振りでもあって。
カーテン越しに射し込んで来る朝の日差しに、身体を起こしカーテンを開けて。
その新しい光が、何か自分にも力を、元気を与えてくれる気がする。
コンコンっ。
リズムの良い軽やかなノックの音に「はい」と普通に返事を返すと、ドアを開けて顔を
覗かせたのは慎吾と剛の2人で。
「あ、吾郎ちゃん、おはよう。起きてた?具合どう?」
慎吾の声に続いて、窓辺に立っている吾郎の姿を認めたらしい剛が
「え?起き上がったりして大丈夫なの?」
とか、真顔で問い掛けて来る質問に、少しの苦笑を返して。
「だからね、剛、俺、そんな頭も上がらないような重病人なんかじゃないんだよ」
昨夜、正広がそうと信じ込んでしまっていたらしい勘違いの訂正をきちんとしたはずなのに、
とも思いつつ。
「あ、うん、それは分かってるつもりなんだけど。でも、何かまさか、ベッドから起き上がってる
とかって思ってなくて」
「うん」
曖昧に頷くと、2人はそこへ顔を覗かせた理由を思い出したように。
「俺達、これから学校、行って来るから」
「・・・・・うん」
「大人しく寝ててね」
「今晩はねー、俺が吾郎ちゃんのためにスペシャルな晩ご飯、用意するから楽しみにしてて!」
それぞれがそれぞれに言い置いて行った言葉に・・・特に慎吾のセリフには、それだけは
止めて・・・・と心の中で呟いたりもしつつ。
「行って来まーす」
「・・・・・え、と・・・・いってらっしゃい」
こんなありきたりな普通の挨拶でさえ、これまで兄弟達の間で、と言うより、自分は弟達に
対しても、誰にもした事がない気がして。
第一、弟達が学校へ出掛けて行く時間帯。自分は朝方、帰宅した後、ほんの僅かな惰眠を
貪っている最中で、それを知っていた試しもなかった気がする。
はっきり、躊躇いと戸惑いを乗せた語調は消え入りそうに小さなものではあったけれど、
それでも、2人の耳にはちゃんと届いたらしく。
2人が大袈裟とも思えるような仕草でぶんぶんと手を振ってドアの向こうに消えるのを
複雑そのものな顔で見送る。
照れ臭い・・・・・
物凄く照れ臭い・・・・・
けれど、それでも、それが物凄く苦痛に感じられたり、どうしようもなく嫌な感覚、と言う
のでもなくて。
不思議と。
そんな些細なやり取りにも関わらず、何気なく温かな、そんな気持ちまで感じ掛けている
自分に正直、ほんの僅かな戸惑いはあったとしても。
・・・・・・いってらっしゃい
唇の中でもう一度、小さくその他愛ない言葉を転がして見る。
くすぐったい・・・・・・
もう一度、窓の外を見ると、丁度、通学路に向う2人の姿が見えて。
振り向いて、その窓に吾郎の姿を認めたらしい2人が、また、大きく手を振って見せて。
「さっさと行きな」
言葉が届くはずもない事は分かりきっていても、吾郎はそう声に出していた。
それからまた、ほんの僅かな後、コン、コン、コン!と今度は丁寧にドアをノックする音が
響いて。
「はい」
返した返事にドアから顔を覗かせたのは、案の定、正広と兄の拓哉で。
「え?あ、拓哉兄貴・・・あ、え?仕事は?まーくん、保育園・・・・」
さっき慎吾と剛が顔を覗かせた時には、それが余りにも意外で、何の意図があるのか、まるで
想像も出来ないまま、ただ、何となく見送ってしまっていて。
そこまで思考が辿り着かなかったけれど。
ぼんやりと。それでも、ふと脳裏をよぎった疑問を小さく洩らした吾郎の声は届かなかった
のか、拓哉がつかつかっと窓辺に立ったままの吾郎の傍に歩み寄ったかと思った刹那。
いきなり額に手を伸ばし。
「え?」
吾郎が丸く瞳を見開く。
「熱は下がってるみてぇだけどな」
不機嫌と言う表情を露わにして、拓哉は険しい、真剣そのものな眼差しで、真っ直ぐに
吾郎を捉え。
「昨夜、あんだけの高熱出したんだからな。ちょっとぐれぇ楽になったからって、ふらふらと
起き上がったりだとかしてんじゃねぇよ」
ほんの僅か腑に落ちなさそうな顔つきを浮かべ、それでも、吾郎はのろもたとベッドに戻り。
「ねぇ、それよりさ・・・・・」
最初に口にし掛けた問いをもう一度、言い掛けようとして。
「まー坊は俺が送ってくから」
吾郎の声を遮るように拓哉が一言、返して来。
ちゃんと聞こえてはいたんだ、と。
「時間、大丈夫なの?」
「理由話して30分だけ遅刻さしてもらう事にした」
「そう・・・・ごめん、迷惑掛けて」
申し訳なさそうに僅かに顔を伏せた吾郎に、拓哉ははっきり驚きを示す。
吾郎が自分に対してこんな風に素直な物言いをして来るとは、実はまだ少し信じられない
気もして。
それでも、そんな風にして自分と向き合ってくれる吾郎の態度が拓哉にとって嬉しくない
はずがない。
「困った時はお互い様?つか、何で迷惑なんだよ」
うな垂れた吾郎の頭に掌を置き、拓哉が軽くその髪をかき混ぜるようにして動かし。
「え?!」
はっきり驚いて自分を見上げて来る眼差しに、拓哉は若干の照れを滲ませた。
「んな、露骨に驚かれっと、何か、こっちが照れるっつーの?」
「え?あ・・・だって、でも・・・・」
反射的にその手を払い除けようと手を挙げた吾郎が、それでも、それを躊躇うようにその手の
置かれた袖口を掴んで。
言いながら吾郎が困惑したように恥ずかしげに、そして、若干の怒りに似た空気も漂わせ
つつ眉を顰め、自分の頭の上に置かれた拓哉の手をどけてくれ、と、その眼差しに訴えて
来る吾郎を、拓哉はやや唇をシニカルに歪め、見詰める。
「・・・あの・・・時間、大丈夫?」
2人のどことなくぎこちなく、温かいのか冷たいのか分かりかねるような空気のやり取りを、
正広が取り残されたように部屋の入り口の辺りに突っ立ったまま見詰めている。
「え?あ・・・・・」
そうして、そんな正広の視線を感じたのか、その存在を思い出したらしい拓哉が、正広を
抱き上げようとして。
両手を後ろへ回したままの正広に、拓哉が「ん?」と首を傾げ、その背中を覗き込もうとして。
そんな拓哉の視線を逃げるようにして、正広はタタタ、と吾郎のベッド脇に駆け寄った。
「ん!これ!」
差し出した手に握られていたのは1輪の淡いピンク色のガーベラの花。
まだ、朝露をその可憐な花びらにひと滴残したままの。
「・・・・・・・・・・え?」
吾郎の目が驚きに見開かれる。
「・・・・・・・・・・これ」
極微かに、零れた吐息のような呟きが震える。
「・・・・・これって・・・・もしかして・・・・・」
「咲いてた」
「・・・・・庭、に?・・・・ママ、が育ててた・・・庭・・?」
じっと差し出されたままのそれに、躊躇うように恐る恐る手を伸ばし掛ける吾郎の様子に
拓哉は気が気じゃないものを感じて。
また、母親の事を思い出して、吾郎が心を痛めるそれを見るのは辛く、そう言う時、自分の
存在が吾郎にとって何の支えにも励ましにもなってやれない事が悔しかった。
吾郎が自分にそれを望む事など、決して、あり得ない事であったから。
大体、病気で寝込んでいる兄弟に花を、と言うその感覚を、正広は一体、誰に教わり、どこで
身につけるのか。
そんな正広の吾郎を思ってしたらしい行動でさえが、今の拓哉にとっては恨めしく感じられた。
「・・・・・咲いて、たんだ・・・・」
大切に愛おしむように、そっと、その小さな一輪を両手で包むようにして、正広の手から
受け取り。
「・・・・・そう」
1人何かに得心したように呟き。
伏し目がちだった瞳を上げた時には、少し普段より多めに水分が蓄えられてはいても、拓哉が
案じたような、いつかのような無機質な危うげな様子は窺えなくて。
「ありがとう」
そっと届けるように唇から放たれた言葉は、柔らかで穏やかな吾郎の感謝の気持ちが、素直に
乗せられていて。
「まーくん、ありがとう」
もう一度、届けられた言葉に、正広は恥ずかしそうに笑った。
「おれ、保育園、ちゃんと元気で行って来るから!吾郎も。吾郎もちゃんと寝てなきゃ
ダメなんだぞ」
そうして、まるで照れ隠しのように、先ほどの拓哉のそれにほんの少し似た顔つきで、
一生懸命になってそう言い募って来る。
「うん。ちゃんと寝てるよ。だからまーくんも気をつけて行っておいで」
「うん」
「おぅ、マジで。ちゃんと寝てろよ。つか、いや、見張ってるって意味でも?せめて今日
1日ぐれぇ?居てやりてぇとこなんだけどな。普段だったら1日ぐれぇ休んだってどうって
事ねぇんだけど、今日だけはどうしても休み取れねぇっつか・・・・・」
「いいよ、そんなの。止めてよ、子供じゃないんだからさ。今朝は熱も下がっててさ、うん、
自分1人でどうにでも出来るから」
「朝飯とか昼飯?チンして食べられるように冷蔵庫に入れてあっし。ほんとはな、作りたてが
1番、美味ぇっつーのは当たり前なんだけどよ。メシもなー、こういう時に1人で食わせる
とかってな・・・・やっぱ、俺・・・・・・・」
やっぱり休みを取るとか言い出しそうな兄の様子に、吾郎は慌てて拓哉の声を遮り。
「本当に1人で大丈夫って言うか、俺、1人の方が気が楽でいいんだよ、ほんとに。下らない
事言ってないで、ほら、早く!30分じゃ済まなくなるよ、遅刻!」
さっさと2人を追い出しに掛かる。
「いや、現場が近けりゃな、昼、一旦帰ってって事も出来なくもねぇんだけど・・・・・」
それでも、まだ、ぐずぐずと言い続けている拓哉の背中をベッドから腕を伸ばし、思い切り
押して。
「いい加減にしなよ!それとも、俺が送って行く?!保育園!」
少し声を高めたそのセリフに拓哉ははっきり反応を示し。
「何、バカな事、言ってんだよ。ふざけてんじゃねぇぞ!」
「お言葉を返すようだけど、ふざけてるのは拓哉兄貴の方って言うか・・・・」
そんな2人のやり取りの間に正広の小さな身体が割り込んで来る。
「ほら!拓哉兄貴、いつまでも吾郎の傍にくっついてたいのかも知んねぇけど、おれだって
ちゃんと保育園、行くんだかんな!拓哉兄貴も仕事、行かなくちゃダメなんだぞ!」
拓哉の手、と言うより中指と人差し指の2本をぎゅっと掴んで。
正広がぐいぐいとその小さな身体で拓哉を懸命に引っ張る。
「わーってるよ。お前に言われなくたって、ちゃんと仕事に行くに決まってんだろ!」
そうして、まんまと正広の方に向き直り、正広を抱え上げ。
「そんじゃ、マジで。ちゃんと寝てろよ。あ、少し身体、楽だから、とか言ってうちの中の
事とかやったりしてたら承知しねぇぞ。ちゃんと寝てるか休憩時間毎に確認の電話入れっから」
「・・・・・・そんな事されたら余計に寝られないって言うの」
呆れた溜息を隠そうともせず、吾郎がベッドに横になる。
「ちゃんと大人しくしてるから、だから、ほんとにいい加減、早く行きなよ」
「じゃな、ごろぉ。おれ、行って来る」
「行って来ます、だろ?」
ふに!とその頬を一つまみして拓哉が若干の睨みを効かせ。
「んじゃ、行って来るから」
「はいはい、さっさと行って来て下さい」
「んだよ、その面倒臭そうな・・・・?!」
「分かった!ごめん!いってらっしゃい。気をつけてね」
再び、拓哉が突っ掛かってきそうになる雰囲気に、吾郎は慌てて、布団の中から手を出し、
小さくひらひらと振って見せて。
更に、意識的ににこっと、ほんの少しの笑みも添えて。
「え?あ、お、おぅ。行って来るな」
「行って来まーす!」
今度はちゃんと子供らしく、けれど、それはやっぱり、幾分、可愛い子ぶってるように
見えなくもない態度で正広も手を振り返し。
漸くドアの向こうに姿を消した2人にやれやれと溜息をつきながら。
それでも、自然と小さく唇の端が綻ぶのを禁じ得ない。
自分がほんの少し浮かべて見せる笑顔に対して、あんな風に一々、一瞬、驚く拓哉が可笑しくて。
可笑しい、なんて言ったら失礼なのかも知れないけど、と、そう思ってみても、やっぱり、
可笑しい事には違いなくて。
・・・・・・へんなの
小さく少しだけ笑いを洩らして。
それは両親が他界して半年余。
初めて自然に自分が洩らした笑みだった事に、けれど、吾郎自身も気付いてはいなかった。
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