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「冗談抜きで本格的に俺に嫌がらせしたいんだね、拓哉兄貴は・・・・何かさっきはちょっと
殊勝な事も口にしてたみたいだったけど、あれは口から出まかせ?」
はっきりと悪意を込めた眼差しに射られ、拓哉は低く溜息をついた。
「俺じゃねぇ、って・・・・・・・」
「・・・・・じゃあ、一体・・・・」
言い掛ける吾郎の声を遮って飛び込んで来たのは。
「吾郎ちゃーん・・・プリーズ!プリーズ ギブ ミー チョコレート!!・・・・じゃなくて!」
聞こえた瞬間に耳を塞ぎたくなる程度にウザイ、慎吾のそんなセリフで。
「プリーズ ヘルプ ミー!・・・って、あ、この場合、ヘルプ アス・・だっけ?」
「・・・・・・煩いな・・・もっと普通に喋れないの?お前は」
ただでさえ体調は絶不調で。
精神状態は不安定で。
あんな風に長々と。
これまで、まともに会話をした事もなかったような拓哉と話す事になったのも、絶対にその
不安定な精神状態が為した技だったんだ、と、はっきり確信だって出来るほどなのに。
そこへもって来て、何故、まだ、こんなふざけた物言いにつき合わされなくてはならないのか。
「まーくんがさー、まーくんがねぇ・・・・・」
慎吾の口から零れたその名詞に、吾郎はほとんど無意識のうちに、反射的に半身をベッドから
起こした。
「まーくんが、どうしたの?!」
途端に、けれど、目の前ははっきりと歪み、掠れ気味な声を張り上げてしまった事で、また、
全身が軋むほど激しい咳に見舞われる。
すかさず、肩に掛けられた柔らかで温かな感触は、コットン素材のパジャマを通しても
肌に感じられ。
その背中を行き来する手の動きが、ほんの少しは、激しい咳の苦痛を和らげてくれるようでも
あって。
「・・・・ちょ、吾郎ちゃん、大丈夫?って言うか・・・・」
咳が収まり掛けた頃合を見計らうようにして届けられた慎吾の言葉は、自分を心配するそれとは
また別の、微妙なニュアンスをありありと湛えて。
一拍程度の間の後で。
「ちょ?!・・・ちがっ・・・・別に、これ、は・・・!」
背中にまだ添えられたままの拓哉の手を大袈裟によけるようにして身を捩る吾郎に、慎吾は
確信的なわざとらしい笑みを浮かべた。
「こ、これは・・・拓哉兄貴が勝手に・・・!」
「吾郎ちゃんは鈍いからねー。って言うか、自分の事以外、なぁぁぁんにも興味がなかった
から」
「な、何だよ、いきなり。鈍いとかって・・・・・」
「拓哉兄貴が吾郎ちゃんの事、本気で嫌ってた訳じゃないって事、知らなかったのは、
気付かなかったのは、吾郎ちゃんだけって事」
確信を持って届けられた慎吾の言葉に、吾郎は普段らしからぬ、多少、うろたえた様子を見せ。
「・・・・・そ、そんな事・・・どうだっていいだろ!それより・・・まーくんがどうしたって?」
そんな自分を誤魔化すように、さっさと話題を元に戻す。
「まーくんがさ、吾郎ちゃんがこのまま死んじゃうんじゃないか、って。何回、そんな事
ないよって言っても、全然、聞こうともしなくて。ずーーーーっと泣いたままなんだよね」
「・・・・・・な、んで、そんな・・・・・」
「吾郎ちゃんが居なくなっちゃうんじゃないか、って。そんなのは嫌だって」
「みんな、おんなじって事だろ?もう誰1人として欠けて欲しくないって気持ち」
拓哉が我が意を得たり、と言わんばかりにこちらを覗き込んで来る視線は敢えてかわして。
「・・・・・・勝手に殺さないでよ。俺、そんな今にも死にそうな重病人じゃないって言うの」
そんなセリフを口にしながら。
それでも、たかが風邪でもこんな風に不安に苛まれてしまうほど、やっぱり、みんな心に
傷を負ってしまっている、と言う、それはそう言う意味を示してもいて。
「プラス、自分が吾郎に風邪、引かせちまったんじゃねぇか、って言う良心の呵責、とな」
付け加えられた拓哉の言葉に、まだ、幼い正広がそんな事まで思えるようになったのかと
思うと、それは始め少し、俄かには信じ難い事でもあって、けれど。
「・・・・ま、俺が余計な事、言っちまったせい、でもあんだけど・・・・・」
「・・・・また、何か言ったの?」
正直な拓哉の告白に呆れた声が今更、漏れるのは仕方ないとして。
「お前が多分、風邪、引いたんだろう、って言う理由を考察?してる時に、な、ちょい・・・・」
「・・・・・大体の予想は出来た、今・・・・あの風呂掃除の時の事、ぐらいな感じ?」
「ご名答」
諦めたように、それでも、幾らかは言い当てられたしまった事に感心もしめしているようにも
見えなくもない顔つきで、拓哉が軽く肩を竦める。
「大体、拓哉兄貴は基本的に配慮が足りないって言うかね・・・・・」
「そう言うなって」
「事実でしょ」
「・・・・反省してるっつーの」
「・・・・え?」
「反省してる。まー坊につまんねぇ話、聞かせちまった事」
「・・・・そう、なんだ」
若干、驚きを示す眼差しで吾郎が拓哉を捉え。
「だから、そのせいで・・・・まー坊がその事を気に病んでるんだとしたら・・・・・俺は
一応、まー坊にもちゃんと詫び入れたんだけどな、吾郎からも気にしてねぇ、っつーか、
ま、その手の事、まー坊に直接、伝えてやってもらえねぇかな、っつーか」
あぁ、それで。
出て行ったはずの拓哉が再び、ここに居る理由を漸く、納得もして。
・・・・・・まーくん・・・・・・
胸の中に零れた呼び掛けは、これまで自分の中に余り感じた事のない愛しさが滲む。
そんな風にして自分の責任かも知れない、と幼い胸を痛めてくれているらしい事は、酷く
感慨深くもあって。
そういう風に敢えて教える、と言う事もしないのに、いつの間に、そういう気遣いを
覚えるんだろう、と。
ただ、日々の生活の面倒を見ているだけなのに、そうして、ちゃんと成長してくれている
らしい正広の、そういう事が吾郎の心の中にほんわりとしたものを運んで来る。
「・・・・・・連れて来て、ここに」
「うん」
頷いて慎吾がバタバタと階段を駆け下りて行き、更に2つの足音が慌しく近づいて来る。
剛に抱きかかえられた正広は、確かに顔面大洪水状態で、その涙や鼻水や、恐らくは涎も
交じった液体は喉を伝い、遠慮なくパジャマの襟元までをぐっしょりと濡らしていて。
・・・・・・・一体、どんだけ泣かせてたんだよ・・・・・
慎吾や剛の苦労を思う前に、そんな責めが頭をよぎりもしたけれど。
でも、それが、剛と慎吾達が一生懸命、自分達でなんとかしようと奮闘してくれていた証
なのだと言う事にも、すぐに気付く。
「・・・・・・おいで」
差し伸べた手を戸惑いを浮かべた2つの瞳が少しの間、見詰めていて。
「・・・・・・おいで」
もう一度。
先ほどよりももう少しだけ柔らかな語調でそう届けながら。
自分に向けてそうして差し伸べられた母の手を思い描く。
思い出す事さえ、怖くて、辛くて、痛くて、出来なかった。
だから、可能な限り何も見ずに、何も感じないように。
殊に、どこかしこも母の思い出で埋め尽くされた家の中に居なければならない時間帯には
特に必死の努力を課すほどに。
それでも、何かの拍子に無意識に浮かび上がり、顔を出すかけがえのない記憶に我を忘れて
囚われる、そんな瞬間を何度もやり過ごす。
慣れない家事も、幼い弟の面倒も、心に空白を作らないための口実としてはうってつけでは
あった。
だから、それがどんなに苦渋に満ちていたのだとしても、それに向う事が出来た。
けれど、そんな時間から解放されて、自分1人の時間になってしまうと、どうしようもない
埋めようもない寂しさが突き上げるばかりで、逃げる以外の方法を、自分は見つけ得ようも
なく。
母の思い出に埋め尽くされた家の中にいるのは、自分にとって拷問に等しくて。
だから、意味もなく夜の街を徘徊したりもした。
半分は眠る事が怖くて。
人間と言うのは、意外にこんなに寝なくても生きて行けるものなんだ、と。
その呆れるほどの生命力に舌打ちしそうな自分も居た。
あんなにも簡単に呆気なく、人の命と言うのは散ってしまうのに、どうして、それでも、
人にプログラムされた生存本能は怖いほどに強くて、図太くて逞しいんだろう、と。
悔しかった。
どうしてもそこを目指したい、と願った訳ではなかったけれど、それでも、そこへ辿り着く
事の許されない自分が。
幾らかの迷いを帯びていた眼差しが、何かを決意したかのように光を灯して。
真っ直ぐにこちらに飛び込んで来る小さな身体を受け止める。
「・・・・・ごろぉ・・・!」
細い短い腕が腰の辺りを抱き締めて、これでもか、と言わんばかりにぎゅうぎゅうとしがみ
ついて来る。
お腹の辺りに押し当てられた顔からは、余りにも素早く、その水分を含んだパジャマが肌に
張り付いて来て。
ちょっと前の自分だったら、耐えられなかっただろうと思えるほどの、それは、正直、苦手な
感触でもあったけれど。
それでも。
泣き過ぎたせいで汗をかき、しっとりと湿度を帯びた髪に触れて、何度もその頭の形を
なぞるように撫でながら。
「まーくんてば、どうしたの?そんなに泣いて」
「・・・・えっ・・く・・・だ・・て・・・ごろぉ、が・・・ごろぉ・・・・が・・・」
激しい嗚咽に震えた喉から発せられる言葉は、ほとんど意味の為さないそれで。
「まーくんがさ、そんな風に泣いてたりだとかしたら、俺、心配で、余計に病気が悪くなっちゃうよ」
「・・・・・え?」
ずぶ濡れの顔が上げられ。
すかさず、丁度、手近にあったタオルでその顔を拭って。
「ちょっと2、3日寝てれば治るのに、まーくんがそんな風にして泣いてたら、俺まで哀しい
気持ちになって、ずっと病気が治らなくなっちゃうかも・・・・・」
「・・・・な、泣いてなんか・・ない、ぞ・・・おれ・・・泣いて・・ない」
ごしごしと。
握り締めた拳までが涙にまみれているにも関わらず、正広は必死になって両目を擦る。
「ダーメ。ダメだよ。そんな風にして擦っちゃ。目にばい菌とかキズが入ったら大変だから」
その手をそっと外させて。
変わりにタオルで目元をそっと押さえる。
「まーくん、ごめんね。こんな風に心配掛けて。ありがと。俺の事、心配してくれて」
「ずっと・・・ずっと居るって約束したんだからな。ごろぉは、ずっと居るって約束した
んだからな。どこにも行かないって・・・・だから、病気なんかで死んだらダメなんだぞ!」
真っ赤に泣き腫らした目が、それでも、必死に注がれる。
「ぜってぇ、ぜってぇ、死んだりなんかしたら、ダメなんだぞ。父ちゃんとか・・・・母ちゃん
みたいに・・・居なくなったら、ダメ・・なんだからな!」
そうして、また、折角、止まり掛けていた涙が盛り上がって来る。
「俺の病気は死ぬような病気なんかじゃないから、まーくんももう、そんなバカみたいな事、
考えるのは止めな。まーくんが拓哉兄貴とか剛とか慎吾と、元気に楽しく仲良くしててくれたら、
俺の病気なんかすぐに治るから」
「・・・・・ん・・・わーった・・・俺、ちゃんと・・・元気にしてる」
一生懸命に涙の溜まった瞳を向けて、言い募る言葉に頷きを返して。
「まーくんに俺の病気が伝染るといけないから、もう、行きな、ね?」
もう一度、丁寧に頭を撫でて。
しっかりと目線を合わせ、ほんの少しだけ小さく笑みを添えて。
「約束だかんな!俺、ちゃんと元気にしてっから、ぜってぇ、ぜってぇ、吾郎もすぐに
元気になんなきゃだめなんだぞ!」
幼い弟の小指が差し出され。
「指きりげんまん」
力強くそう言われて、吾郎も若干の躊躇いを滲ませつつも、そっとその指に自分のそれを
絡ませ。
「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます」
ぶんぶんと指先の絡まった手を振り捲られて、思わず、指がするっと抜けそうになるのを
堪えるために、指先に若干の力が篭もる。
小さくて細い指の感触を・・・・こんな風に改めて感じたのも、多分、初めての事で。
「指、切った」
心持ち神妙な顔つきで吾郎を見詰め、指を外した正広が、今度は自分から剛と慎吾の手を
引っ張り。
「慎吾、剛、行くぞ」
とか。誰が年上なのか分からない偉そうな態度で。
けれど、正広のそれが精一杯の虚勢だと言う事もまた、兄達には理解出来てもいて。
「「はいはい」」
言われた剛と慎吾が素直に大人しく、その小さな手にいざなわれ部屋を後にするのを、見送った
後で。
「お前・・・・結婚詐欺師とかになれそうな勢いじゃねぇ?」
拓哉がすかさず苦笑を漏らす。
「失敬な。口は災いの元を地で行ってる拓哉兄貴に言われたくないって言うか?」
「俺達、案外、足して2で割ると丁度いい感じじゃねぇ?」
そんな拓哉の言葉に、内心では納得も示しつつ、顔には明らかな苦笑を浮かべた吾郎だった
けれど。
「俺はいいからさ・・・今夜はまーくんについててやってよ。剛と慎吾じゃ心許ないって
言うんでもないけど・・・・やっぱさ、こう言う時って・・・・・」
「父親の出番?」
はっきり意識して浮かべられた悪戯っぽい笑みに、吾郎は益々、苦笑を深くせずには
いられなかったけれど。
「・・・・・ま、そう言う事、だよね」
幾らかの溜息を滲ませた声音は、それでも、拓哉の言を受け入れたものだった。
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