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額にヒンヤリとしたものを感じて、それが火照って弱った身体に酷く心地良く感じられて、
ほぅっと深く安堵の息を吐き出す。
首筋や襟首に当たる柔らかなタオルの感触が、汗を吸い取ってくれて。
まるで、こちらの苦しい所を知っているかのように、肘や膝などの関節を順に交互に
さすってくれる手の動きに。
・・・・・・・ママ?
薄ぼんやりと目の前に浮かぶ人影に問い掛ける。
・・・・・・・帰って来てくれたの?俺、ママが絶対に帰って来るって・・・・帰って
来てくれる、って、ずっと・・・・・ずっとそう思って待ってた・・・・ママ!ママだよね?!
ねぇ、ママ?
ゆらゆらと淡く翳む霧の向こうに佇む人影に向って、懸命に手を伸ばし、呼び掛けも
するのに、こちらに返って来るものは何も感じられずに。
・・・・・・・待って!俺も!俺も一緒に連れてってよ!俺はずっと、ママと一緒に居たいんだよっ!
駆け出そうにも、足は吸い付いたようにその場所から一歩も動かせる事もなく。
・・・・・・・ねぇ、ママなんでしょ?!ママじゃないの?!ねぇ、ママ!
・・・・・・・行くな・・・ここに居て、くれ・・・・・
必死に呼び掛ける自分に、どこからともなくそんな声が聞こえて来る気がして。
・・・・・誰・・・・?一体・・・・・誰?
重い瞼を持ち上げようとして、伏せた瞼の上からそっと、滲んで溢れる涙を辿るように、
目尻に向って動く何かの動きを感じて。
それが目からこめかみへ移動した辺りで、どうにか瞼を持ち上げて見る。
ぼんやりと滲む天井の間接照明が目に入り、こめかみに何かが触れている方にゆっくりと
首を回し、そこに居た相手に一瞬、ぎょっとする。
「・・・・・な、何やってんのっ?!こんなとこ、で・・・っ!」
思わず声を張り上げた刹那、潤いを失って悲鳴を上げ掛けていた喉の粘膜が、反乱でも
起こすような勢いで、再び、激しく咳き込んでしまい。
その背中を慌しく行き来する手の動きを同時に感じながら。
それは夢の中を漂っていた時に母の手と錯覚した手の動きにも、どこか似ていて。
「・・・・・ひ、1人にして、って・・言ったのに・・・・・」
咳が収まり、掠れた声のままとにかく抗議する。
「・・・・・第一、伝染ったりだとかしたらどうするつもり?拓哉兄貴が仕事に行けなくなる事が、
今のうちにとってどれほどのダメージになるかだとか、そういう事は考えないの?」
「俺はちゃんと予防接種、済ませてるからな」
「予防接種してたって伝染る時は伝染るんだよ?!」
声を出す度に喉が悲鳴を上げるようで。
それでも言わずには居られない。
「・・・・・・俺が俺の身勝手でこんな風に家族に迷惑を掛けてる事は・・・申し訳ないと
思ってるよ・・・・・来年はちゃんと予防接種も受けるから・・・・・だから、今はもう
1人にしといてよ・・・・・・」
「・・・・・・俺じゃ全然、父親代わりとして役不足だって事、ちょっとぐれぇは自覚して
ねぇ訳でもねぇ。ましてや、母親代わりなんかにはぜってぇなれねぇって事も分かってる。
だから、そんな無謀な事は今更、望んだりはしねぇけど、でも、家族が苦しんでる時に
せめて、大した事はしてやれなくても、ほんとに何の役にも立てねぇんだとしても、傍に
居てやるぐれぇの事はしてやりてぇ、って思う」
・・・・・いや、それは俺以外の相手の時に、大いにそうしてあげてくれたらいい、と。
吾郎は心の中で呟く。
「お前が抱え込んでる苦しみも痛みも、俺には想像する事すら出来ねぇんだとしても、その
ほんの一部、極、僅かであったとしても、気遣ってやる事ぐれぇは出来るようになりてぇ、
だとか・・・・・・」
割合、熱心にそんな言葉を伝えられて、吾郎の中ではただ訝る思いが薄っすらと広がる。
兄の変化の意味が吾郎にはまだ、良く分からない。
「夢ん中で必死にお袋呼んで追っ掛けてる感じのお前、見てて・・・・」
「・・・・・・・・見てたんだ・・・?」
唇から零れ落ちた掠れた声は、どこか自分のものではないような錯覚を吾郎に抱かせた。
意識が朦朧としている事を除いても、その事実は吾郎を酷く苛んで、そういう感情を露わに
する事が怖いほどに、胸の中で激しい怒りも感じている。
そんな事は家族に、特にこの兄には絶対に知られたくなかったから、1人にしておいて
欲しい、とあれほど頼んだつもりだったのに。
どうせこれでまた、兄の中で自分に対して下されているマザコンと言う評価がより一層、
新たかになるのかと思うだけで、うんざりする。
「そのまま、お前まで連れてかれちまうんじゃねぇかって、ちょっとだけ怖かったな、今」
「・・・・・・・・・・・・え?」
だから、その後、続いた兄の言葉に思わず耳を疑う。
「お前なんかと上手くやってけねぇって、ほんとはずっとそう思って来たはずなのに、それでも、
お前が居なくなるかも、って思うだけで・・・・怖かった」
「・・・・・・・・・・・・」
「もう、誰も・・・・・居なくなって欲しくなんか、ねぇんだ・・・・・・」
こめかみに触れていた指が僅かに震え、そっと離れる。
痛みを堪えるように呟かれた拓哉の響きは、吾郎の胸の中に確かに届いた。
あの時、自分を呼び止めた悲鳴のような、悲痛な声・・・・・
大切なものを失って、苛まれているのは・・・・・・
「・・・・・・俺、だけじゃ・・ないのに・・・・・」
「・・・・・・え?」
「寂しいのも辛いのも・・・・俺だけじゃない、んだよね・・・・・多分・・・・」
混沌とした心の中に渦巻いていた絶望や喪失感の中に、何かがぽん、と投げ込まれ、その
波紋が心の湖面に刻まれて行くように。
ざわざわとした何かが広がって行く。
「・・・・・・俺だって・・想像した事なんかなかった・・・・長男である兄貴に圧し掛かる
重圧だとか・・・・責任、だとか・・・・・何かあったら、全部、兄貴のとこに行くんだ、
なんて事・・・・・・・学校の事とか・・・・・」
「・・・・吾郎?」
「まーくんが母親と呼べる人に育ててもらえたかも知れないチャンスを勝手に握り潰しちゃった
拓哉兄貴の事、俺、ずっと・・・・憎んでた、よ・・・・。だから、せめて俺がどうにかして、
まーくんにちゃんと・・・・・って・・・・出来もしない事・・・・背伸びして必死に
どうにかしようとしてた・・・・・。それでも・・・・そんな風に思う傍らで、まーくんに
愛情を持って接してたか、って・・・・そんな事もそんな簡単には出来なくて・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺、ずっと・・・自分の事しか・・・考えてなかった」
今更、そんな思いに突き当たる。
「お前だけじゃねぇよ、多分。みんな・・・自分の事で精一杯っつーの?兄弟とか家族とか
言う感覚?ちょっと忘れ掛けてた感じっつーか・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「ま、元々、俺とお前の間にそう言う感覚とかって、多分、お互いにほとんどなかったって
思ぉし、こういう時にほんとは一致団結して頑張んなきゃなんねぇのに、何かそういうの、
全然、出来てなかったっぽいっつーか」
「・・・・・・・・まぁね。仕方ないでしょ?俺達2人にそう言う感覚がなかったんだと
したら、下の人間にそれをしろって要求する方が無謀だしね」
吾郎が拓哉の発言にまともに同意を示した事は、もしかしたら、これが初めてかも知れなくて。
「とにかく自分に課せられた責任さえ果たせば、後は何がどうでも関係ないって、俺、
はっきりそう割り切ってた部分はあって・・・・・」
「・・・・・ん。だな・・・お互い、みんな、そんな感じだったんじゃねぇ?んで、さっき
慎吾とか剛とかも話してたんだけどな」
「・・・うん」
「部活がねぇから、とか、俺が学生ん頃にはちゃんとやれてたんだから、とか、そういう
理由でお前にかなりの負担を掛けちまってたにも関わらず、しかも、それを何か当たり前に
思い込んでた事?あれはやっぱ、まずかったんじゃねぇか、って感じの話になって」
「・・・え?」
「ま、気付いたとこから改めてくしかねぇだろう、って結論に至ったっつーの?」
「・・・・・・・そう」
ほぅ・・・っと。
幾らか深い息を吐き出して、吾郎がゆっくりと瞼を伏せる。
「・・・・・悪ぃ。大丈夫か?疲れさせちまった?」
「・・・・・ううん、そうじゃない・・・・・そうじゃなくて・・・・・・果てしない自己嫌悪に
まみれてるとこ・・・・・・」
「んだよ?自己嫌悪って」
「・・・・・まぁ・・・・色々?」
「聞きてぇ・・・・・・」
「・・・へ?」
「聞かせろよ。っつか・・・・・お前とこんな風に話すの・・・・初めてかもな」
「・・・・・・だね、多分・・・・それは否定しない」
高熱がそうさせるのだろう、ほんのりと水分を多めに蓄えた瞳が潤んで、上気した頬に
ゆっくりと仄かな笑みが広がる。
「え?」
「・・・・・え?」
驚いたように声を上げた拓哉に、吾郎もまた、ワンテンポ遅れて似たような声を上げて。
「・・・・・何?」
ほんの数時間前までの切りつけるような問い掛けではなくて。
幾らかの不安げな様子を滲ませた問い掛けが、拓哉にとっては酷く新鮮でもあって。
「あ、いや・・・・お前がそんな風にして素直に笑って見せるの、って・・・・・俺に向って
そんな顔、して見せるのとかって、何か・・・・・・・」
「何か、何?」
「・・・・・・・何でもねぇ」
「・・・・・・・・何、それ」
苦笑して、吾郎がまた、はぁ・・・と息をつく。
「まぁ、とにかく、少し休め」
「・・・・・・・あ、・・・ん」
若干の躊躇いを示しながらも、そうして素直に自分の言う通り瞼を落とした吾郎に、ある種、
驚愕にも近い感動の嵐が拓哉を見舞う。
けれど、次の瞬間、また、パチッと音がするほど、長い睫がくっきりと持ち上げられ。
「やっぱ、無理・・・・絶対、無理・・・・誰かにこんな風にして見られたまま寝るなんて
芸当は俺には出来ない」
弱々しく掠れた声が、それでも、妙に力強くそんなセリフを断言して来る。
「別に寝込みを襲ったりなんかしねぇから安心しろ」
「・・・・・・は?それはどういう発想?って言うか、そう言う話じゃなくて。・・・・・
疲れるなぁ、もう・・・下らない事、言わないでよ」
むぅっと、はっきりとした不機嫌を露わにして、けれど、そこにこれまで込められて来た
突き刺すような剣を帯びたニュアンスは成りを顰めている。
「けど、そう言われれば、お前の寝顔って見た記憶がねぇ気、すんだけど?」
「俺もないよ、拓哉兄貴の寝顔なんて。って言うか見たいとも思わないでしょ、お互いに」
「あぁ、まぁ、そりゃあそうだけどな。こんな事でもねぇ限り、拝ましてもらえるもんでも
ねぇって事だ」
「・・・・・・拝んでくれなくていい」
「お前とさー、風呂とか一緒に入った事もねぇよな、確か?」
「ないよ。記憶にある範囲内でないね。俺、子供の頃はママと一緒に入ってたし、拓哉兄貴は
パパとだったし。自分で入れるようになってからは1人」
「剛とか慎吾と入った事も?」
「ない。あいつらはあいつら2人で入ってたよ、子供の頃ね。って言うほど明確な記憶が
ある訳でもないんだけど、確か、風呂上りとかに良く2人してバスタオルをマント代わりに
して首に巻きつけて、何とかマン!とか叫びながら裸で走り回ってて、ママに叱られてた」
「・・・・あー、そっちの記憶な。まー坊の風呂も俺の仕事だし?」
「当然。お風呂は父親の仕事でしょ?大切なコミュニケーションの手段でもあるって言うの?
父親って意識しないとそういう時間って持ち難いじゃない、どうしても。だから、一緒に
入浴って効果的だと思う」
「そういうお前はずっとお袋と、だったんだろ?けど」
「そう。だからね、パパとの記憶もほとんどなくて。パパもママにばっかり甘えて、パパには
ほとんど寄り付かなかった俺の事、あんまり可愛いとも思えなかった風だったし」
「その分、こっちにって感じはあったな。良くあちこち連れ出されて・・・サーフィンも
釣りも剣道も。教えてくれたのは全部、親父だったもんな」
「パパは拓哉兄貴に期待してたよ、随分と。長男って男親にとっては、やっぱり、特別な
思い入れがあるみたいだし」
「・・・・・期待、か」
そうして、拓哉の中には過ぎたまだ、親のそうした思いを汲む事など、到底、出来もしない、
どうしようもない子供だった頃の悔いが上る。
唇を噛み締め、顔を伏せた拓哉の耳に、また、控え目な吾郎の息をつく音が届く。
「・・・・・・そんなに俺が邪魔だったら、少しの間、お前が寝付くまでの間、消えてて
やるよ」
はぁ!と。
今度はこちらがわざとらしく溜息を響かせてやる。
「恩着せがましい言い方だよね・・・・拓哉兄貴も一度、おんなじ事されれば、分かると
思うけど。この状況がどんなに寝難いかって」
「俺?俺は別に。って言うか、むしろ、今のお前になら傍に居て欲しいって思えると思ぉけど?」
「・・・・・・・は?」
「昔の・・っつーか。ほんの数時間前のお前だったら勘弁だけど、今のお前だったら、俺が
ダメんなりそうな時、弱ってる時、ちょい傍に居てくれると・・・・嬉しいかも知んねぇな、
とか」
「・・・・・・・ヤバイよ、拓哉兄貴。脳にいきなりインフルエンザ菌が入って、既に
侵されちゃってるんじゃないの?」
そんなセリフを結構、本気で口にしているらしい事は、吾郎のその表情からはっきり窺う事が
出来た。
「・・・・・・ガキん頃からずっと・・・・お前が何、考えてんのか、どう思ってんのか、
色々、知りてぇって思ってた、俺は。けど、お前が露骨に俺にそんな事は知られたくない
っぽいニュアンス?俺の事を兄貴だとか家族だとか、あんま思ってくれてねぇ風なの?さすがに
俺も感じてたし、そんな風にしてお前からシャットアウトされてる自分を認めんのも嫌で」
傷ついた顔を隠そうともせず、今更、そんな昔の事を口に上らせる拓哉に、吾郎も思わず、
自己弁護が迸る。
「だって・・・拓哉兄貴が!拓哉兄貴がいつも俺の事、マザコンだとか恥ずかしいだとか、
バカにして・・・・女々しいだとか、なよなよしてるとか・・・・言いたい放題だったじゃん。
そんな自分の事、棚にあげといてさ、自分だけが傷ついた、みたいに顔するのは止めてよね。
俺を認めてくれてなかったのは、拓哉兄貴の方だったじゃん!」
そうして、普段よりも少し強い口調で言い募った後、また、激しい咳に見舞われて。
「・・・・・・拓哉兄貴は根がSなんだよ・・・・俺はちょっとでも早く身体を休めたい
って思ってるのに・・・・いつまでもそうさせてくれなくてさ。咳き込んで苦しんでる俺を
本当は愉しんでるんじゃないの?」
それが収まった後の涙の浮いた眼差しが拓哉を冷たく捕らえる。
「え?やっぱ、分かる?!」
嬉々として、唐突に笑顔を弾けさせた拓哉に、さすがに吾郎の眼差しに本気の怒りが浮いた。
「や、冗談!冗談だって。真に受けんなよ。わーった。わーったから。もう行く。んじゃな」
漸く、ドアを開けてその向こうに拓哉の姿が消えるそこまでを見届けようとしていた吾郎の
元に、ドアを出たはずの拓哉が再び、顔を覗かせた。
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