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「剛、慎吾。お前ら今日はまー坊の事、面倒見てやってくれな。頼む」
長兄からこんな風にして頭を下げられるのは、もしかしたら、初めてかも知れない、と。
そんな感慨、と言うよりはむしろ、驚きと同時に、一瞬はある種の怯えすら感じつつ、
剛と慎吾は曖昧に頷く。
「俺、今晩はちょい、吾郎のとこについててやっから」
「「え?」」
2人同時に重なった声は、また、同じ驚きを示していて。
「吾郎ちゃんの具合、そんなに悪いの?」
慎吾が剛よりも若干、先にそんな疑問を口にした。
「熱が39度越えてる。多分、インフルエンザじゃねぇかって思う。お前らはちゃんと
予防接種、行った?」
「「行った」」
また、声が重なり。
「ま、だったらいいんだけどな」
「って言うか、行くでしょ?そのためのお金もわざわざ渡されてたんだし。なのに、何、
もしかして、吾郎ちゃん、行ってない、とか?」
勘良くそんな突っ込みをして来る慎吾の問いには敢えて、回答を避けて。
「明日から当分の間、今まで吾郎がやってた事、お前ら2人にやってもらう事になると
思うから」
「えぇーーーーっ?!」
途端に慎吾の口から不平めいた声が迸る。
「・・・・・んだよ?」
それを一睨みで封じ込めさせて。
「洗濯は朝、俺が済ませてくから。お前ら帰って来たら取り込めよ、ちゃんと。で、それぞれ、
自分のもんぐれぇは自分で仕舞う、これ、当然な?後、晩飯も俺が帰って来てからやるけど、
それまで、腹、減るだろうしな。あんま、食い過ぎねぇ程度に、適当に間食は許すとして。
っつーか、部活の後とか、適当に食ったりしてんだろ、お前らな。だったら、少しぐれぇ
晩飯、遅くなっても平気だよな?後、風呂。これ、お前らでちゃんとやれ。出来んだろ、
そんぐれぇ」
「うん・・・風呂掃除して沸かすぐらいはね」
「まーくんのお迎えとかはどうすんの?」
剛から投げ掛けられた質問に。
「保育園に理由話して延長が可能か、まず確認して・・・・可能なら、俺が仕事帰りに
迎えに行くし、それが無理なら、お前ら2人で交代に頼むしかなさそうだけどな」
「うへぇ・・・そうなると、部活、一日おきに休まなくちゃなんなくなるって事?先輩に
思いっきり睨まれちゃうじゃん」
問い掛けて来た剛よりも先に反応を示したのは慎吾の方で。
「俺の方から学校とか顧問にはちゃんと連絡しといてやるよ。それと、朝、まー坊を送って
くのも、お前ら2人でやってもらいてぇんだけど?」
「えっ?!」
「俺、仕事、遅刻しちまうから、まー坊送ってくとかしてると」
「って、俺達だって、学校!」
「吾郎も条件、おんなじだろ?吾郎が出来てた事、お前らに出来ねぇとか言わねぇよな?」
とは口で言いつつも、年齢が下がれば下がった分だけ、負担を大きく感じる事は理解出来る
事であったとしても。
「何もずっとなんて言ってねぇだろ?吾郎が復活するまでの何日間かなんだからよ」
「「・・・・・うん」」
当然、多少、不承不承の感は否めないのだとしても、2人が了承を示すのを見届け。
「・・・・・そうだよね、これまでずっと、吾郎さん1人でそういう事、してくれてたって
事だもんね」
そこに気付いたらしい剛の言葉に、慎吾も若干、気難しげに眉を寄せては居たけれど。
「まーくん、明日から暫くの間、宜しくねー」
間もなくにっこりと笑みを浮かべ、その膝の上に正広を抱き上げる。
けれど、正広は相変わらず、硬い表情のまま。
「どうしたのー、まーくん?そんな怖い顔しちゃってー」
ぷにぷにと頬を摘んで、その柔らかな感触を愉しんでもいるように慎吾が笑う。
「俺・・・・吾郎が病気の間、保育園、休む・・・・・」
「ダメだって。吾郎が休んでても、まー坊はちゃんと保育園、行かなきゃな。それに吾郎は
寝てなきゃなんねぇから、まー坊のめんど・・・・遊んだりだとか出来ねぇんだ」
正広の面倒までは見られない、と言い掛けて危うくその言葉を飲み込んで。
別の言葉に置き換える事にはどうにか成功したものの。
「だって!俺・・・・、俺・・・・の事・・・・みんな、困んだろ・・・・?」
弱く、つかえつかえしながら言葉を出した後、ぎゅっと目を瞑り俯いてしまった幼い弟の
様子に、漸く、自分達の過ちに気付かされる。
「あっ!えっと・・・あの、さ」
正広の事に対する諸々を負担だ、面倒だと、一瞬、湧かせてしまった気持ちそのものが、
正広の存在を否定し、邪魔者、お荷物扱いしてしまっている、そんな意識は微塵もない
のだとしても。
今の会話の内容から、少なくても正広がそう受け取ってしまう事もまた、当然の事で。
どうにか、その誤解を解きたいと焦りはしても、上手い言葉を見つけられずに、慎吾も
剛もしどろもどろに口篭る。
「まー坊、悪ぃ。ごめんな。俺ら、っつーか、俺、ほんとマジで悪かった。俺、何か・・・・
全然、ダメだよな、えっと、色んな事・・・・?父親代わり失格・・・っつーの?」
深く考えもせずに本人の目の前でついうっかり、今のような話題を口にしてしまった事。
剛や慎吾の反応が想像出来ないはずもなかったのに、不用意に口にしてしまった事で、また、
正広を傷つけてしまっている自分の愚行に。
まだ幼い正広に向って、懸命になって頭を下げる長兄の姿に、弟達も一様に神妙な面持ちに
なり。
「拓哉兄貴だけのせいじゃないって言うか・・・・俺達もおんなじだし」
「吾郎の事も・・・・そりゃ、ガキん頃からのわだかまり?だとか、色々、全然、全部、
なくなっちまったとか言う事はねぇけど・・・・でも・・・あいつの事も、ちゃんとまともに
見ようともしてなくて・・・・・こんな風にぶっ倒れるぐれぇ、具合悪ぃ、とか・・・・
毎日、顔つき合わせてたのに」
「拓哉兄貴だけじゃないじゃん。俺達も誰も何も気付いてなかったんだし」
「そんな落ち込まないでよ。何か拓哉兄貴がそんな風に落ち込むとかってさ、俺達、初めてで
どうしたらいいのか、分かんなくなる」
「失格なんかじゃないよ。お互いにさ、今まで出来てなかったと思う事は、これから出来る
ように気をつけて行けばいい事なんじゃない?」
弟達に励まされる、と言う経験を、恐らく、拓哉もこの時、初めて経験していて。
「なぁんかさー、でも、ちょっと悔しくない?俺達が今、こうやって色々、気付かされた事って
吾郎ちゃんのお陰なのかな、とか思うと」
どんよりと重い、湿りがちな空気を払拭しようとするかのように、ふと、慎吾が思いついた
ようにそんなセリフを口にして。
「誰がヤなヤツってさー、吾郎ちゃんが1番、ヤなヤツだったりするのにねー」
わざわざ、そんな一言まで付け加える辺りが、素直じゃない慎吾の1つの表現方法なのかも
知れなくて。
「え?そんなにヤなヤツかなー、吾郎さん、て」
剛が思いの外、真剣に、今の慎吾の発言に対して首を傾げる。
「可愛げがないって意味でね」
「確かに可愛げはねぇわなぁ」
あっさりと。
先ほどの吾郎の部屋で繰り広げられたやり取りをまざまざと脳裏に浮かべて、拓哉もまた、
深く同意を示す。
「そんな事ねぇもんっ!ごろぉはいいヤツだぞっ!」
不意に酷く熱心なそんな幼い声が室内に響く。
「ごろぉはな!ごろぉはいいヤツなんだかんなっ!いっつも、いっつも、一杯、一杯、俺の
事とか、みんなの事とかやってくれて!ごろぉはいいヤツなんだぞっ!」
慎吾の膝に抱かれたまま、慎吾の方に向き直り、懸命に言い募る様が掛け値なしに可愛い、
とみんなに思わせる、そんな雰囲気でもあって。
「ん。そうだな。俺達、みんな・・・当たり前だと思ってたのかも知んねぇな、吾郎のそういうの。
だから、これからな、当たり前じゃねぇって事、もっとちゃんと認識しなきゃな」
正広の頭に手を置いて。
「だから、今日はまー坊も剛とか慎吾と仲良く出来るよな?」
「・・・・・・ん」
途端にしゅーん、と。
沈み込んでしまうような空気をありありと滲ませて、俯いてしまう小さな頭をぐにぐにと、
少しだけ弄って。
「そんじゃ、家族会議はこんぐれぇにして・・・・後、頼むぞ。俺、吾郎の食えそうなもん、
適当に拵えて上、行くから」
慎吾に正広を預けたまま、拓哉はキッチンに立ち。
手際良くシンプルにたまご粥を拵え、それを携えてさっさと階段を上って行く。
「えーっと、じゃあ、まーくん、一緒にお風呂、入ろっか?」
膝の上から正広を抱き上げ、そう言って顔を覗き込む慎吾に続いて
「それじゃあ、お風呂から出たら、一緒にゲームとかやる?」
剛もそんな誘い掛けをして。
「・・・・・ん」
それでも、相変わらず正広の表情は暗く沈んだままだった。
コンコンっ、とノックの音を響かせるのと同時に、中からコホコホと咳き込む声が響いて来る。
「飲むか?」
すかさずベッド脇に屈み込み、用意したストローつきボトルに入れたアルカリ飲料を示して。
咳き込んだせいで潤んだらしい瞳が、少し戸惑うように見開かれる。
「・・・・・な、んで?」
「あんだけ咳き込みゃあ、喉も渇くんじゃねぇのって」
「・・・・・じゃなくて」
「何だよ?」
「・・・・・なんで、ここに居んの?」
「って、熱出して寝込んでるヤツ、1人っきりにして放っておく訳に行かねぇだろうよ」
「・・・・・まーくんは?」
「剛と慎吾に任せてある」
「・・・・・大丈夫なの?」
「大丈夫だろ?お前でもどうにかなってたんだから。あの2人の方がまだ年も近ぇし、遊んだり
だとか風呂入ったりだとかすんのも出来んだろ?」
「・・・・・そう、かもね」
はぁ、っと。
わざと拓哉に聞かせるようにして吐き出された溜息のように感じて。
「・・・・・別に1人で大丈夫だよ、こっちも・・・ただ、寝てるだけなんだし・・・・
あ、そんな事より・・・まーくんの送り迎えだけど」
「・・・・・は?」
「保育時間は延長可能らしいから・・・・悪いけど暫くの間、拓哉兄貴に仕事終わったら
行ってもらう事になると思う。剛とか慎吾とか・・・・部活あるんだろうし」
「・・・・・・・・・・」
吾郎の枕のすぐ横に転がっている携帯の意味するものを知らされた気がした。
ベッドの中から保育園にそんな連絡を取っていたのかと思うと、胸が締め付けられるようで、
言葉に詰まる。
「朝は拓哉兄貴の出社時間的に考えて・・・・・・・・」
「いいから。そんな事は俺達で何とかするから。お前はそんな心配なんかしないで、もっと、
ちゃんとゆっくり自分の身体、休める事だけ考えてろよ」
思わず、そんな風に吾郎の言葉を遮っていた。
そして、唇にやや強引にストローの先を含ませる。
ほんの一口、二口、喉を湿らせるようにしてそれを飲んだらしい吾郎はすぐにまた、唇を
離し。また、こちらに背中を向けて。
「・・・・・・ほんとに。いいから、1人にしてよ・・・・誰かが居ると思うだけで気が
休まらないんだよ、俺・・・・・・」
それは確かに切実な願いに感じられないでもなくて。
「・・・・・・たまご粥作って来た。何か胃にも入れといてやんねぇと余計に身体、参っちまう
だろ」
「・・・・・・・・・・」
「寝るんだったら、これ食ってからにしてもいいだろ?」
ゆっくりと振り返った眼差しが、はっきり吾郎が迷惑がっている事を遠慮もなく伝えて来る。
「・・・・・・分かった」
それでも、それを吾郎が口にしない限り、拓哉がこの部屋を後にする事もない事もまた、
吾郎は承知しているようで。
ゆっくりと身体を起こそうとするのを手助けしてやり、その肩に適当にその辺にあった
シャツを着せ掛けてもやりながら。
「つか、お前、着替えした方が良くねぇ?制服のまんまじゃ、余計に身体、休まんねぇ
だろうよ」
帰って来て、そのまま、家の中の事をある程度済ませ、ベッドに倒れ込んだ時点で、意識は
はっきり遠ざかり。
着替えをする元気など、そんな意識さえ、とても保てるような状態でもなく。
「・・・・・・これ、食べたら・・・着替える」
そんな言葉を伝えておかなければ、益々、兄の滞在が長くなりそうな予感は確かにあって。
それは吾郎にとって、決して、有難い事とは思えなかった。
「パジャマとかどこ仕舞ってあんだよ?お前が食ってる間に出しといてやるから」
「・・・・・・いいよ、自分でするから」
「身体、起こすだけでもふらふらしてるような状態のヤツに、ベッドから降りてクローゼット
開けさせたりだとか出来ねぇだろ」
「・・・・・・・・」
その兄の口振りに吾郎は複雑な表情を浮かべた。
こんな風に母親以外の人間に世話を焼かれる、と言う経験もなくて。
兄がこんな風に面倒見のいい性質だと言う事も、当然、これまでまるで知る由もなかった。
兄弟とは言っても互いに性格も性分もまるで対極にあるような存在の兄は、一緒に暮らして
いても、ほとんど自分の中では赤の他人と大差ない感覚でもあって。
そんな人間にクローゼットを開けて中を探られる、と言うのも、何となく気恥ずかしくて
自分にとっては耐え難い事にも思えた。
「・・・・・・ヤだよ」
「は?」
「人に自分のタンスとか開けられんのは嫌だ」
「人って・・・・・」
一瞬、はっきりと絶句して、浮かべられた表情は悔しげでもあって、寂しげでもあって。
「・・・・・・・そうかよ。悪かったな。んじゃ、好きにすれば」
ぷいっと。
顔を背けたその勢いのまま、兄は部屋を出て行ってしまい。
ほんの僅か、折角、自分を気遣ってくれたらしい兄を傷つけたのかも知れない、と言う良心の
呵責は弱った自分を一層、苦しめる気がした。
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