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「ん?あれ、んだよ、今日ってレトルトのカレー?」
帰宅した時点で感じた僅かな違和感をはっきりと認識したのは、リビングに入ってからで。
大抵はそこにいつもあるはずの吾郎の姿が見当たらず、テーブルの上には人数分揃えられた
カレー皿やスプーン、コップと言った食器類と共に鎮座しているレトルトカレーのパック。
「吾郎は?」
すかさず正広を抱き上げ、その顔を自分の目線の高さに合わせ問い掛ける。
「べんきょ、しゅゆって、部屋行った」
「勉強?」
「うん」
頷く正広の様子が、それでも不安げな空気を醸し出し。
それは拓哉にもすぐに伝わって来る。
「おい、剛、お前、吾郎から何か聞いてねぇの?」
「うん。帰って来てからまだ、1回も顔、見てないけど」
「慎吾、お前は?」
「知らなーい」
それぞれがそれぞれに、皿にご飯を盛りながら、ほとんど興味もなさそうな口振りでそんな
返事が返って来る。
「んだよ、それ。お前らなー、ちょっとは心配するとか・・・・」
「へぇ、拓哉兄貴が吾郎ちゃんの事でそんな風に言うなんて珍しいじゃん。って言うか
大体、もし、こっちがさ何か吾郎ちゃんの事、心配したんだとしてもさ、余計な事して
くれるな、みたいな目で見られるのがオチなんだし。お前には関係ないんだよ的態度に
出られたりするとさ、こっちもさすがに凹むしね」
慎吾が意外なほど事細かな反論をして来るその言は、確かに、と納得させられるものでも
あって。
「そっとしておいて欲しい時もあるのかな、って。こんな風に適当な晩ご飯にしちゃうなんて
ほんと、吾郎さんにしては珍しくて・・・・まーくんに聞いたんだけど、部屋には居るみたい
だから・・・・・・・」
剛が何気なく部屋には居る、と口にしたその言葉に拓哉は一瞬、ぞっと背筋が凍る思いに
身を竦ませた。
そんな風にして一歩も部屋から出て来られなくなった吾郎が、過去には居て。
もし、また・・・・・・
血相を変えて階段を駆け上る長兄の姿に、弟達も階段の下に集まって上を見上げる。
コンコンッ!!
多少、荒々しく聞こえなくもないノックの後、返事も待たずにドアを開け。
ベッドが人の形に盛り上がっているのを確認し、物も言わず、その掛け布団を勢い良く
引き剥がしていた。
途端に顔を赤くして、荒い呼吸に薄い胸を波立たせる姿が視界に飛び込んで来て。
「・・・・・え?」
洩れた声と同時に、もう一度、丁寧に布団を掛け直し、額に手を置く。
「・・・・・あっつ」
独りでに零れた声を掻き消すように、コホコホと掠れた咳が吾郎から漏れる。
「風邪、か・・・?」
そう言えば水を頭から被りずぶ濡れのまま、少しの間、風呂掃除をしていた姿が蘇り。
「・・・・・・・ばーか・・・」
零れた言葉に軽く口端を歪め、汗で額に張り付いた前髪を指先で軽くよける。
取り敢えずは冷却シートと体温計を取りに部屋から出、階段を下りようとして、そこに
揃っていた弟達の顔に「風邪じゃねぇかと思ぉけど。熱出して寝込んでる」そんな報告を
伝えて。
ほっと。一様に少し安心した空気がこちらにまで伝わって来る。
「人騒がせなんだからさ」
慎吾が大きな口に微妙に歪んだ弧を描いて。
それでも、その空気は言葉ほどの険悪さはまるで感じさせずに。
「ごろぉ、風邪?」
冷却シートやら体温計を集めているその足元に縋りつくようにして、自分を窺って来る
眼差しは不安で一杯に満たされている。
「んー・・・・診察してもらった訳じゃねぇから、はっきりした事は分かんねぇけど、多分、
風邪じゃねぇ?ほら、1回、風呂掃除の最中にずぶ濡れになってた事とかあったしな」
「・・・・・あれ、俺のせい・・・・1回だけじゃない・・・・時々・・・・俺のせいで
ごろぉ、風邪、引いたのか?」
アーモンド型の色素の若干薄めな瞳がぐらぐらと揺れて、それはそのまま、正広の心の
震えを示しているようでもあって。
「まー坊のせいなんかじゃねぇって」
不必要な一言を聞かせてしまった自分の過失に苛まれつつ、拓哉は正広を少しでも安心
させようと抱き上げる。
「ごろぉ、今日、お迎えに来てくれた時、手ぇ、熱かった」
「・・・・・・・・そっか。そんじゃ、その頃、もう、既に熱が上がってたって事か」
それでも・・・・
いつもとさほど変わらず、風呂を掃除して沸かし、洗濯もある程度はこなして。
正広を抱き上げたまま、吾郎の部屋を訪れ。
額の汗を拭い冷却シートを乗せると、その冷たさに吾郎が僅かな身動ぎを示して。
「・・・・ごろぉ?」
すかさず拓哉の腕の中から滑り降りた正広が、吾郎を覗き込む後ろからその様子を見守る。
「・・・・・まーくん・・・あ・・これ・・?ありが、と・・・・」
額に軽く指で触れ、冷却シートに気付いたらしい吾郎が、そう言い掛けるうちに拓哉の
存在にも気付いたらしく、視線が僅かに動いてこちらにも向けられた。
「熱、まだ、測ってねぇだろ?これ・・・」
手にしていた体温計を唇の僅かな隙間に押し込むようにして突っ込んだ刹那、はっきり嫌そうに
吾郎の顔が歪みはしたものの。
間もなく体温計が示した温度は39度を超えていて。
「・・・・って、おま、これ・・・ちょ、もしかして、何日か前から具合、あんま良く
なかったとか言うんじゃねぇよな?」
「・・・・・さぁ・・・はっきりとした自覚症状があった訳じゃない、けど・・・・多少、
イラつく感覚はあって・・・・生理かな、とかね、思ったりして?」
わざと瞳の奥に剣を持たせて、そんな風に返されたセリフは、まざまざと慎吾の言を拓哉に
思い起こさせた。
「・・・・・そうやってお前は、俺らがそんなお前の体調の変化に何も気付きもしなかった
事、責めてる、とか言う?」
「まさか。俺だって気付かないよ、誰の体調の変化にも。そんなのは今更、お互い様でしょ?」
わざとらしく呆れた薄い嘲笑を纏って返されたそんな言葉に、少し前の自分だったら完全に
キレて、簡単に罵り合いのケンカになっただろう事は、自分でも想像が出来た。
けれど、今は。
「・・・・・悪かったな、気付いてやれなくて・・・・」
拓哉が届けた言葉に吾郎は明らかに訝って、露骨に眉間に皺を寄せ、気味悪そうにそんな
拓哉をじっと注視して来る。
「・・・・・な、何・・・?何だよ、いきなり・・・・もしかして、俺が病人だから、さすがに
ちょっとぐらいは気とか遣ってくれてる、とか言う?」
そんな風に吾郎が戸惑いを通り越して、異様な警戒を敷く程度に、自分達のこれまでの関係性は
確かに良好なものではなかった。
「止めなよ、そんな慣れない事・・・・こっちも余計に具合、悪くなりそう・・・・・」
そこまで言うか?!と、内心では以前に似た感情も確かに湧き上がっては来るけれど。
「・・・・・お前の指の怪我とか・・・・・朝も何か、ほとんど遅刻してるらしいしな」
「・・・・・え?」
「担任から電話、あって。家族でももう少し注意して時間に間に合うように家を出させて
欲しい、みてぇな?」
「・・・・・・・ふざけんなよ」
明らかな憎悪を込めた声音で呟かれたセリフは、けれど、酷く微かな音量で吐き出された
それではあっても。
「自分がこなせてたから、誰でもおんなじようにこなせるだろう、って。俺、勝手にそんな風に
思い込んでた」
それは自分の心のどこかにあった安易な現実逃避を暴き立てられるようでもあって。
得手不得手や能力には差があって、自分と同じ事をこなすのに、吾郎と自分との間にある
違いや、吾郎が自分と同じ事を同じようにこなすために、自分には想像もつかないような
苦渋や努力を強いられている事なども、当然、想像してみようとさえ思った事もない。
出来て当たり前。どうして、出来ないんだ、と。
日々、不満ばかりを募らせ。
それでも、それを口になるべくしない程度には配慮したのは、それが破綻を招く事ぐらいの
想像力は働いたせいで。
どんなに間に合わないのだとしても、居ないよりはマシ。
自分の中にあった吾郎に対する認識と評価はその程度のもので。
吾郎がもちろん、それに気付かないはずもなかった。
だから、吾郎は吾郎でどんなに自分にとって、その事が困難で苦渋に満ちていたからと言って、
自分に向って泣き言や弱音を吐く事も出来ずに・・・・・
「・・・・・・・どうせ、俺は拓哉兄貴みたいには器用に何でもこなせないよ・・・・悪かったね、
不器用でさ」
「じゃなくて・・・・・」
余りにも如実な敵愾心を露わにされているようで、拓哉は言葉を飲み込んだ。
言葉で伝えるよりももっと・・・・ちゃんと吾郎の心に届く形で示さなければ、受け入れられる
事もない、と。
それぐらい、お互いの溝は既に埋め難いものになってしまっている。
「・・・・・・つか、お前、もしかして、これ、インフルエンザとか言わねぇよな?」
ふと、話題をすり返るように。
この発熱の具合からして、頭に浮かんだものを問い質してみる気になった。
「・・・・・・・・ただの、風邪、だよ・・・多分」
虚ろな瞳を僅かに空に泳がせるようにして漂わせる、そんな視線の動きに、拓哉にはピンと
来るものがあって。
「お前・・・・予防接種、ちゃんと行った?」
「・・・・・・・・・・・・」
「予防接種!」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺、行っとけっつったよな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「金も渡したよな?まー坊と2人分。あれ、どうした?つか、まー坊にも受けさせてねぇの?」
「・・・・・・・・まーくんは連れてった」
「で?そんじゃあ、お前の分の金は?」
何も答えようとしない、それが余りに明確な答えでもあって。
「使っちまったの?」
「・・・・・・・・・・・・」
「来月の小遣いから差っ引くからな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「ったく。だから、ちゃんと受けとけっつっただろうよ。人の言う事、ちゃんと聞かねぇから、
こんな苦しい目に遭うんだろ?」
ぜぇぜぇと。
荒い呼吸を繰り返し、熱を帯びた瞳が普段よりも多めの水分を湛えて頼りなく揺れる。
「来年は首に縄つけてでも、俺が引っ張ってくからな、予防接種」
「・・・・・・・・・・・・」
恨めしげに、忌々しげに睨み返して来る眼差しは、それでも、酷く力なく自分を映し。
ごほごほと咳きが迸り出る瞬間、向けられた背中の向こうで
「・・・・・・もう・・・いい、から・・・出てって・・よ・・・・」
弱々しい声が拒絶を告げて来る。
「ごろぉ・・・・・・」
不安げな声が小さく、その名を呼んで。
「・・・・・・まーくんも・・・・もう、来ちゃ・・ダメ、だよ・・・?」
こちらに完全に背中を向けたまま、布団の中から伝わって来た空気の震えに、正広の目に
一気に涙が盛り上がる。
「・・・・・ごろ・・・おれ・・・ごめんな・・・」
ぎゅっと一度だけ、その盛り上がった布団にしがみつき、小さな謝罪を呟いた正広がすごすごと
引き下がるようにして、自分の足元に戻って来る姿に痛々しさを感じながら。
「大丈夫だから。吾郎、別にまー坊の事、怒ってて、来るなとか言ってんじゃねぇんだからな?」
抱き上げて、そんな言葉を伝えて見ても、まだ、正広は悲しげな眼差しを抱いたまま、ただ、
こちらに向けられた背中をじっと見詰めている。
「・・・・・・早く、行きなよ」
とどめのように、また、吾郎から促され、正広を抱いたままドアを開けて。
「・・・・・・ゆっくり休めよな」
そう言い置いて、拓哉は一旦、その部屋を後にした。
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