あれから何年になるんだろうな・・・・・
吾郎の誕生日を明日に控えて、ふと、胸に湧く思い。
生きる希望を見失い、自暴自棄になっていた自分を救おうと、死にほんの一歩、誘って
くれた少年はいつも死の危険と隣り合わせに居て。
死ぬ事で救われる、と本気で信じ込んでいた幼い思いやりのお陰で、逆に命ある事の
大切さとそれを失う事の恐ろしさ、自分はこの世にたった一人で存在して居る訳ではない、
と言う当たり前の事を、全て実感として思い知る事が出来た。
それは、生きる意味を見つけ出した事と等しくて。
もう一度、新しい命を与えられたような気さえしていた。
だから。
何としてもその恩返しがしたかった。
その命の恩人を、自分の手で今の苦しみから救い出してやりたかった。
生きる事の、当たり前で素晴らしい事。
ただ、命を紡ぐだけで意味のある事をどうしても、知って欲しかった。
知って、理解して、ちゃんと自分の足で立って歩いて、生きて欲しい、と願って。
ただ、そのためだけに、絶対に不可能と、自分を知る全ての人間に完璧なまでの太鼓判を
押されながら、それらの人達の想像を裏切り、医大への入学を果たし医学の道に進んで。
文字通り、死に物狂いで、ただ、そのためだけに自分の人生の全てを費やした、と言っても
過言ではなかった青春時代を経て。
そうして、医者として、吾郎の担当医として、吾郎と再会を果たした日が、丁度、吾郎の
19歳の誕生日の日だった。
次々に届けられる花束や、豪華な贈り物の数々に癇癪を起こして看護士達を病室から締め
出し、発作を起こして1人、冷たい床の上で苦しんでいた。
ベッドへ移動せるために抱き上げた身体が余りに軽くて、胸が痛くなる思いを下らない
世間話に紛らせて誤魔化し。
診察する自分を不審げな、不満げな、そして、不安げな眼差しで冷たく睨みつけていた。
いつか、気付かれる事があるかも知れない、と。
自分が吾郎の過去に関わりを持つ人間である、と。
吾郎が入院している間中、吾郎を苦しめ続けたトラウマの原因になった相手が自分だと、
知る日が来るかも知れない、と半分は怯え、その事を打ち明けられずに居る自分の卑怯さに
良心の呵責を抱えながら。
それでも、必死の思いで治療に当たっていた自分を、いきなり切り離すように担当から
外し、挙句の果てに自分が出張中に退院してしまったばかりか、その足で渡米までして。
音信不通のまま、5年の歳月の後、今度は上司として同じ病院に赴任して来た時期も
あった。
今は元の両親との約束通り、医学の道は絶って、後継者業に専念している吾郎ではある
けれど。
明日で33になるなんて。
そういう年齢に至るまで元気でこうして、自分の前に居てくれるなんて。
再会した当初は、正直、想像も出来ないで居た。
「あれ?木村くん、まだ、起きてたの?」
パジャマの上にガウンを羽織った吾郎がリビングの前を通り掛り、明かりが漏れている
のを見咎めたらしく、足を止め中を覗き込んで首を傾げた。
「あ?おぅ・・・ちょっとな。お前は?」
「トイレ、だけどさ。何、眠れないの?」
パタパタと軽いスリッパの音と共に吾郎が近づいて来る。
「そう言うんでもないけどな」
「そう?医者って仕事は生活のリズムがどうしても一定し難いからね、身体の中の生体
リズムを正常に保つのも難しいものがあるよね?」
わざとらしい持って回った言い方が、少しだけ勘に障ったけれど。
それは吾郎流の心配を誤魔化している態度だと言う事ぐらいは察しがつけられるお陰で。
「ま、そう言う小難しい事でもねぇんだよ。ちょっとな、小腹が空いたっつーの?」
「お腹、空いてるの?人間はね、本来、少しぐらい空腹な方が睡眠を取る時には胃に負担が
なくていいらしいんだけどね」
・・・・・あー、あー、そうだな、確かに理屈はそうなんだよ。ただな、人間、何でも
かんでも判で押したみてぇには行かねぇの。
そんなセリフを内心には零して見るが、口にはしない。
こんな時間にそんな下らない事で吾郎の機嫌を損ねて、無益な口論は避けたかった。
「何か作ろうか?」
「へ?」
てっきり「だから、さっさと寝れば?」と続けられる、と予想していた言葉とはまるで
違う予想外のセリフを投げ掛けられて、思わず、変な声が喉を迸る。
「お腹、空いてるんでしょ?だから。何か消化のいい、簡単に作れるもの、作ろうか?」
自分は余程妙な顔をしているんだろう、吾郎が訝ったように眼差しを細め、ほんの少しだけ
眉を顰めて、そんな自分をじっと注視している。
「・・・・・俺、何か変な事、言ったかな?」
いつまでも俺からの返事がない事を本格的に疑問に思い出したらしい吾郎が、少し声音に
剣を含ませ、僅かに小首を傾げた。
「あ、いや。いや、変な事なんかなーんも言ってねぇよ。ただ、お前がそんな風に言って
くれんのが珍しいな、っつーか」
「珍しくて悪かったね」
完全に今度は声音が強張っている。
「いや、悪くなんかねーんだって。嬉しい。めっちゃくちゃ嬉しいよ。お前がそんな風に
俺を気遣ってくれたんだ、って事」
「何、それ。木村くんの俺に対する評価って、一体どんな評価なんだろうね。俺って
どんな人間に思われてるのかな?こんな常識的な気遣いにそんな風に感激されるなんて、
物凄く不愉快だよ」
綺麗な闇色の瞳の中に明らかな怒りが見て取れる。
怒らせないつもりが、また、どうやら思いっきり怒らせてしまったらしい。
「あ、いや。悪かった。そんなに怒んなよ。な?ちゃんと謝るから」
「・・・・・謝ってもらっても・・・・それよりも、俺に対する認識や評価を改めてもらい
たいよ」
「ん、分かった。改める。ちゃんと改めるから。けど、っつーか、俺が嬉しいっつったのが
そんなに気に障ったのかよ?」
「別に・・・・嬉しいって言われた事が気に障った訳じゃ・・・・・」
「そんじゃ何がそんなに気に障ったんだよ?」
「って・・・・分かってないの?」
「ん?」
「だから・・・・俺がその程度の常識的気遣いも出来ない人間だって思われてた事が
心外だって言ってるんでしょ?」
「・・・・・・あー、そっか。ん。なるほどね。うん。吾郎もそういう気遣いぐれぇは
常識的に出来るっつー事ね。うんうん」
「何、そのおざなりな返事は」
「いや、認識と評価をインプットし直してるだけだって。吾郎はそういう事もちゃんと
出来るんだって」
「何か・・・・物凄く、物凄く、バカにしなかった?今」
「してねーよ」
「した」
「してねーって」
「したでしょ」
「してねーっつーの!」
「したってばっ!」
「してねーだろーがっ!!」
「したよっ!!絶対、絶対、ぜーったいにしたっ!!」
「・・・・・ぷっ」
「・・・・・何?」
「あ、いや。今更、改めて、だけどよ。元気になったなって思ってよ」
「・・・・・・・・」
「こんな風にお前と言い合いしてて、お前が興奮して発作起こすんじゃねぇかって、そんな
心配を必死になってしてた頃があった、なんて・・・・今は夢みてぇな気、しねぇ?」
「・・・・・夢なんかじゃないさ。いつもそうだった。ちょっと興奮するだけですぐに
目の前が暗くなって息苦しくなって胸が痛くなって、そのうち身体中が痛くなって、気が
ついたら気を失ってる、なんて事、日常茶飯事だったよ。俺にとってはそれが当たり前で、
そうでない生活や人生、生き方があるなんて事、それこそ、夢にも想像した事さえなかったよ。
最初から諦めてた。このまま、いつか死ぬんなら、早くその時が来ればいい、って。いっつも
暗い死への憧憬を胸に抱いてたよ」
吾郎のセリフは切実で声音は痛々しくて、俺は自分が不用意に投げた問い掛けが吾郎を
また、傷つけてしまった事に悔いても足りない思いで歯噛みする。
「だから・・・・俺にとっては逆に今が夢を見てるようだよ。走っても怒鳴っても、癇癪を
起こしてもストレスを感じても胸が苦しくならないなんて・・・・今の方が夢見てるみたいだ。
これは凄く都合のいい、幸せな夢で、目が覚めたら元の、前のあの生活に戻ってるんじゃ
ないかって・・・・今でも夜眠る少し不安になる事もある・・・・」
「・・・・・吾郎・・・」
いつの間にか成長してしっかりした成人男性らしい体格になった。
背丈などはほとんど自分と変わらない。
広くなった肩幅と、それなりにしっかりして来た胸板と。
それでも、やはり、全体的にほっそりとしたその身体に思わず腕を回し、きつく抱き締めて
いた。
「・・・・・ただ」
余りに強く力を入れ過ぎたのか、腕の中で吾郎が苦しげに身動ぎし、弱く息を吐くように
声を漏らした。
「・・・・・ただ、あの頃に比べて、今の自分は幸せなんだとは思えてるよ」
「・・・・・・・・」
「こうして、朝、目が覚めて命が繋がってる事を良かったって思えるようにはなった」
「・・・・・・・・」
「木村くんのお陰だから」
近過ぎる距離から吾郎が俺に向けた笑みに、思わず視界の全てを縫い止められる。
はにかんだようにほんのりと眼差しを細めて、頬に薄く淡い紅を滲ませるように。
呪縛によって笑う事を戒められていた天使が、呪縛を解かれ、初めて笑みを浮かべて
見せる時のような。
端正な面差しにゆっくりと柔らかく笑みが広がって行く。
「・・・・・・吾郎」
「このまま・・・今の生活が続いてくれるといいって願ってる」
その笑顔のまま、謳うように夢見がちな眼差しを纏って、吾郎はまるで自分にもそう
言い聞かせるように、そんなセリフを紡いだ。
「・・・・・・ん」
「永遠に、なんて望まない・・・・でも・・・・」
言いかけて吾郎は続きを飲み込み。
「ん?」
続きを促した俺に小さく首を振った。
「何でもない」
「んだよ、言えよ。気になるだろー」
「いいんだ。何でもない」
「良かねぇよ。何かこう・・・出そうで出ない感じ?飲み込めそうなのに飲み込めねぇ
感じ?気持ち悪ぃだろーよ」
「いや、そんな深刻に気に掛けるほどの事でもないから。軽く聞き流しておいてくれれば
いいんだよ」
「いーや、そういうのは俺の性分に合わねぇんだ。白黒はっきりつけねぇとな」
「そういう融通の利かない性格は改めるべきだと思うよ。人が言いたくない、言う気が
ないって思ってる事、どうして無理矢理聞きだそうとするの?」
「無理矢理って。言い掛けて止める方が悪ぃんだろ?言う気、ねぇんだったら、端っから
口に出さなきゃいいだろ」
「あー、そう。俺の責任だって言いたい訳?」
「責任なんて言葉、持ち出して来んなよ。何か事が大層になって来る気、すんだろ?」
「責任って言葉以外にどう言う言葉を使えばいいのかな?」
「・・・・・・あぁ言えばこぅ言う・・・・・」
「何?」
「何でもねーよ」
「何だよ?今、ぼそっと何か言ったでしょ?」
「別にー。聞こえなかったんだったらそれでいいんじゃねー?どうしてもお前に聞いて
もらわなきゃなんねぇような話でもねぇし?」
「かも知れないけど。気になるでしょ、そういう言い方されると」
吾郎のセリフに俺は手を打って飛び上がりたいほどの心境で。
いや、それはかなり大袈裟な表現だとしても。
引っ掛かったな、吾郎。
突然、弾けるような笑みを浮かべた俺に、吾郎は気味悪げにはっきり眉を顰める。
「今度は何?」
「今、何つったの?」
「今度は何?って」
「その前」
「・・・・・気になるでしょ、そういう言い方されると・・・・?」
「な?!気になんだろー?!気になるよな?!分かった?俺の気持ち」
得意満面、ってこういう顔の事を言うんだろう、と。
酷く納得させられる気持ちで。
軽い溜息と同時に苦笑が上る。
けれどそれは直に気持ちが浮遊するような、重い何かから解き放たれるような、明るい光に
向かって扉が放たれるような、眩しい心持ちに繋がって行く。
自然と唇が綻んで声が漏れた。
こんな風に何でもない些細な事で、自分が笑えるようになるなんて、想像した事もなかった
自分が過去に存在していた、と言う事さえ、今は遠い過去に思えて。
「さっき、俺が言い掛けた事・・・・・」
「おぅ」
「・・・・永遠に、なんて言わないから・・・・俺のこの心臓がその鼓動を止めるその
時まで・・・・・今のこんな状態が続けばいい、と思ってる」
「・・・・・・おまっ・・・」
「ほら、やっぱり」
「何が?」
「絶対にすると思ったんだよ、そういう表情(かお)」
「そういうって、どんな顔だよ?」
「心配そうな顔・・・・・こういう言い方をすると木村くんはきっとそんな顔をするだろうな
って想像がついたから、言うの止めたのに」
吾郎の顔に、けれど、口ほどでもない柔らかな笑みが浮かぶ。
「心配しなくて大丈夫。今更、死にたいって思ってる訳じゃないんだから」
「ん・・・・・・」
「いつか、止まる日が来るんだから。俺も、そして、木村くんも。でもその瞬間を迎える
その時までって」
「そだな。うん」
深くゆっくりと頷きながら、俺はそう口にしながら笑う吾郎の笑顔に、自分の中に
誇らしい思いを感じている。
そうして、この笑顔がずっと続けばいい、と。
「・・・・・そう言えば、もう12時、回ってねぇ?」
「え?」
「Happy Birthday Dear GORO」
「・・・・・・え?あ・・ありがと」
「ちゃんとしたお祝いは明日帰ってからやるとして。折角だから、軽くワインで乾杯だけ
でもすっか」
「あぁ、うん・・・・・・」
「んだよ、何か気になる事でもあんかよ?」
「いや、大した事じゃないけど」
「だから、んだよ?」
「Dearって言うのがね、ちょっと引っ掛かったかな、と」
「マズイ?」
「あんまり同性間で使わないような気が」
「気にすんな、そんな細けー事」
「・・・・・・・・」
「ワイン、どれがいい?俺がセレクトしていい?」
「え?あ、待って」
微かに眉根を寄せていた吾郎が、慌てたように俺が開けようとしていたセラーの傍に
近寄って来る。
「あんま、重いのにすんなよ。こっちで適当につまみ作るから」
「んー」
既に俺の声なんかは耳に届いていない風な曖昧な唸りが返って来て。
熱心にワイン選びをするそんな真剣な眼差しの横顔に、ふ、と笑みが零れて。
・・・・・・この心臓がその鼓動を止めるその時まで・・・今のこんな状態が続けばいい
改めて胸の中にそのセリフを浮かべて。
噛み締める。
自分も同じ思いだと。
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