|
【1】
病院から自宅までのいつもの帰り道。
慣れたエンジンから伝わる小刻みな振動を感じながら、信号待ちのためにブレーキを
踏み込み、その拍子にふと、何気なく頭の中に浮かんだメロディーが口をついて出る。
暫く、そのまま、その曲を口ずさんで。
この曲、あいつが好きだって言ってたな、なんて。
そんな記憶が脳裏を過ぎって、ただ、それだけの事なのに、酷く幸福で満ち足りた想いを
感じる自分がちょっと恥ずかしい気がする。
それでも。
嬉しい気持ちを噛み締めるように、逆にそんな自分から目を逸らすように、ちょっと乱暴に
ハンドルを切って、目についたコンビニの駐車場に車を滑り込ませ。
ちょい遅くなっちまったからな、ビールでも買ってくか・・・・・
なんて。
俺も仕事柄、そんなに酔い潰れるほど飲む訳には行かねぇし、俺も、そして、吾郎も。
随分と元気になって、通常の生活に支障のない程度には健康を回復したとは言っても、油断は
大敵だからな。
酔っ払うほどの酒量はやっぱり心配だ。
これまで、体調等の事もあってか、口にする機会はなかったみてぇだったけど、たまに俺が
晩酌とかしてる時にグラスを覗き込んだりして。
「美味しい?」
とか。
タバコに関してはそういう反応をまるで示した事もねぇ所を見ると、酒に対して示してる態度は
割合、興味深々ぽくて。
初めて、ビール飲ませてやった時の事が、脳裏に蘇って来る。
「飲んでみるか?」
「いいの?」
「ちょっとぐれぇは大丈夫だろ。もし、ちょっとでも異変を感じたら、すぐ、言えよ」
「うん」
すっかり気分は主治医の頃に戻り、自分のグラスを吾郎に差し出す。
ま、多少、恐る恐るみたいな感じで、それでも、割合、普通に半分ほどを飲み干して、
グラスを俺に返して来て。
「どう?美味い?」
ちょっと興味もあって問いを投げると。
「ビールは初めてだけど。うん、嫌いな感じじゃないと思う」
とか、素直じゃねぇ感想なんかを返してきやがるんだが。その吾郎のセリフに引っ掛かりを
覚える。
「ビールは初めて、って言い方は、ビールじゃねぇアルコールは飲んだ事があるっつー
事だな?」
わざわざ分かりやすく突っ込んでやると。
「さすが、木村くん、鋭いね」
にこり、と。
綺麗だが、感情の感じられねぇ笑みを浮かべて。
「1回、剛に強引に強請って、ウィスキーの水割りを飲ませてもらった事がある」
そんな告白を聞かされて。
んだよ、それっ?!聞いてねぇぞ!と思わず喚きそうになる俺を遮って
「木村くんが婚約してた頃の木村くんの誕生日にね、剛とずっと一緒に居て、飲ませて、
って頼んだ。お酒、飲みたい気分だったから」
吾郎の目がヒタ、と俺に注がれる。
「剛のバカ、何、考えてやがんだよ?大体、飲ませろっつわれて、飲ませてもいいかどうか
ぐれぇ分かりそうなもんだろぉが!」
「剛は何かあったら責任、持てない、って凄く嫌がったけど、剛が飲ませてくれないん
だったら、他で飲むって脅したら、嫌々、飲ませてくれた」
天使の笑顔の奥に悪魔の笑みを閃かせて、吾郎が確信的に言葉を続ける。
「・・・・・・・こんな結末を望んでた訳じゃなかったのにね?」
吾郎の表情を形どっていた美しい笑みが、冷たく凍りつくように俺を責める。
そうして、その直後。
ガラスの表情から不意に、生身の、傷ついたような顔が覗いて。
けれど、それを俺に見せる事はプライドが許さない、と言わんばかりに、ぶつけるように
自分の額を俺の肩に押し付けて来る。
そんな吾郎の細い背中をそっと支えるように腕を回して。
「俺が悪ぃんだから。お前が自分を責める事なんかねぇんだ。お前はあんまし知んねぇかも
知んねぇけど、こういう事は別に、そんな珍しい事でもなくて・・・・・」
ぱっ、と顔を上げた吾郎が、言い掛ける俺の声を鋭く遮る。
「一般論を聞きたい訳じゃない!一般論なんかで言い訳しようとしないでよ!」
「俺は正しい判断をしたと信じてる。俺が本当に本気であいつを幸せにしてやりてぇ、して
やれる、って思ってた訳じゃねぇ事、あいつだって気付いてはいた、と思う。あのまま関係を
続ける事はお互いが不幸になるだけだった。形式上、仮にそこに幸せがあるように外からは
見えたかも知れなくても、それが本物の幸せだって俺が、そして、あいつが感じられたか
どうかは分かんねぇし。あいつは俺との事を完全に過去の事にしちまって、今は慎吾と本物の
幸せを築いてる。だから、これで良かったんだ」
真っ直ぐに吾郎の目ん中を見つめて。
そこに映る自分に同意を求めるように。
「だから、いつまでもお前がその事で自分を責めたり、苦しんだりする必要なんかどっこにも
ねぇんだ」
「・・・・・・・慎吾の結婚式の日」
「ん?」
「それでも、彼女ははっきり俺にあからさまな敵意をぶつけて来た、んだけど?彼女の俺に
向けた視線はまるで、大切な恋人を寝取った泥棒猫に向けるそれみたいな、そんな風に感じられた
んだけど、僕には。解決した、って、勝手に思い込んでるのは木村くんの方だけなんじゃないの?」
「何だよ、それ。それって・・・・プライドなんじゃねぇの?あいつの。自分の魅力が単に
受け持ち患者の1人に過ぎねぇお前に負けたんだ、って言うのは、ま、正直、何をどう考えたって
あいつにとっちゃ承服しかねる現実だろうよ」
「って、そんな他人事みたいに・・・・単に受け持ち患者の1人に過ぎない相手にどうして、って、
誰だって思うよ、そんなの」
「ま、しようがねぇんじゃねぇ?俺の人生は既にそいつと出会う事で1回は完全に変えられ
ちまった訳だし?」
「・・・・・・・・・・・」
「結婚なんか、ま、そのうち?気が向いた時にすりゃあいいんじゃねぇの?」
「・・・・・・・論点がすり替わってるけど?」
「ん?」
冷ややかな吾郎の眼差しに何食わぬ顔で知らん振りを決め込む。
「・・・・・・・・・・・木村くんがそう思うんなら、ま、勝手にすれば?」
そんな俺の態度に諦めたように小さく肩を竦めて見せた吾郎が、軽く溜息を落として。
「おう。勝手にさせてもらうから。だから、お前はいい加減・・・・・・・」
「分かった。もうこの事には金輪際触れない」
いきなりそれまでの全てを断ち切るような、そんな言い方はこいつの専売特許みてぇなもんでも
あって。
本当に納得したのかどうか、大いに怪しい部分ではあったけれど、それっきり吾郎がその件に
関して話題にして来るような事はなくなり。
こいつとの酒に纏わる記憶が俺ん中でまだ、これだけ程度しかねぇ事が、何となく面白くねぇ
気がしねぇでもねぇんだけど。
コンビニで缶ビールを2本買って、吾郎が待ってくれてるうちへ、帰路を急ぐ。
駐車場で車を止めて、エレベーターに乗り、自分の部屋のある階で降りて、自然と足早に
なってる自分に苦笑を浮かべ。
玄関に辿り着き、その違和感に眉を顰めた。
いつもなら点いてる明かりが消えたまま、玄関は通路の仄明るい灯りの下で暗く闇に沈んで
いる。
嫌な胸騒ぎが鼓動を苦しくさせる。
焦りと不安で震える指先がキーを震わせ、鍵を開けるのさえもどかしく、玄関のドアを開き。
すぐさま、灯りを灯し、逸る気持ちを懸命に抑えて、真っ直ぐに吾郎の寝室に向かう。
もし、ただ、普通に休んでいるだけだとしたら・・・・・
勝手に妙な想像を巡らせた挙句、ただ、休んでるだけの吾郎を叩き起こしちまうような
真似は顰蹙ものだし、という程度の冷静さは持ち合わせているつもりで。
それでも・・・・・
嫌な予感を振り払うように、そこに必ず居るはずだと信じて。
一応は低くノックの音を響かせて、そっとドアを開けて見る。
玄関と同じく、そこは暗く闇に沈んでいて。
居るべきはずの姿はそこにはなく、ベッドは朝、整えられた形のまま、使われた形跡もない。
慌てて、そこを飛び出し、家中の灯りを点けながら、ドアを開け放ち捲くり、そこにあるべき
姿を捜して。
うち中の全てのドアと言うドアを開け放ち。
それは部屋のドアだけでなく、クローゼットやらキッチンの戸棚、挙句は玄関の下駄箱の
ドアまで開け放って。
煌々と灯りの灯った室内のどこにもその姿を見つける事は出来ずに。
愕然と。
呆然と。
リビングの真ん中に突っ立ったまま、背中をしとどに滑り落ちる嫌な汗を感じながら。
俺は勿体つけるように携帯の短縮ボタンに設定してある吾郎の携帯のナンバーを押した。
まるで祈るような気持ちで。
少し出掛けていて。
ただ、ほんの少し帰りが遅れているだけなんだ、と。
懸命に自分に言い聞かせるように、そんな風に必死で思ってしまうのは、その実、その可能性が
余りに低く感じられるから。
こんな風に。
俺が帰るよりもまだ遅く。
吾郎がうちを空けた事など、一緒に暮らし始めてこれまで、ただの一度だってない事だった。
漸く繋がった、と思った回線の向こうからは「現在、電話に出る事が出来ません」なる音声
案内だけが機械的に流れて来て。
バクバクと。
変な風に心臓が波打って、酷く苦しい。
・・・・・待て。
・・・・・落ち着け。
頭の中で言葉を繰り返し、瞼を落とし、深く3回、深呼吸する。
今日、吾郎が留守にするような事を言ってなかったか、もう一度、記憶の隅から隅まで洗い直して。
念のため、スケジュール帳まで取り出しても見て。
・・・・・落ち着け。
子供の頃のような発作に・・・・
どこかで身動きも取れなくなって、そんな状態で苦しんでるはずなんかない・・・・・
あの結納の日の・・・・
あの日の吾郎の・・・・俺の腕に残した鬱血の後と、白く血の気を失って、やがて、スーモーションの
ように、弱くゆっくりと俺の腕を滑り落ちて行った細い手が脳裏をよぎり。
硬く目を瞑り、首を振る。
・・・・・そんなはずはない
とにかく・・・・・・
とにかく・・・・・・今、吾郎がどこに居るのか、何をおいても先決なのはその謎を解く事。
縋るような思いで、最近ではほとんど連絡を取り合う事も久しくなっていた悪友の番号を
呼び出し、その番号に掛ける。
いつの間にか、気がつけばそいつは吾郎がずっと思い描いて来た親の跡を継ぐ、と言うその
場所のなぜか、吾郎にとても近しい場所に居て。
「俺だってなぁ、秘書なんて仕事がどんぐれぇ自分に似合ってねぇか、なんて事は百も承知だし、
んな仕事よか、現場でバリバリ飛び回ってる方が性に合ってる事も分かってんだよ!けどな、
しゃーねぇべ。ご指名なんだとよ。俺だって許されるならやりたくなんかねぇっつーの!何?
お前、代わるか?医者辞めて?」
その事を知った時、イの1番に問い質すために乗り込んだ先で、そいつは苦りきった顔で
散々、文句を垂れた後で。
「けどなー、その話を吾郎本人から打診された時?ちぃっとだけ?思った訳よ。あいつに
とっちゃー、いきなりあの会社の代表取締役っつー、今の椅子に納まる事?は、ものすげー
プレッシャーだったんじゃねぇか、って。そんな中で味方らしい味方も居ねくて、孤軍奮闘
っつーのは、幾ら何でもきつ過ぎんじゃねぇか、とかな。あいつが俺みてぇな秘書の秘の字も
知んねぇようなド素人をわざわざ自分の傍において、秘書っつー名目の仕事をさせたがったのって、
誰か1人ぐれぇは自分の事?せめて知ってくれてる人間に傍に居て欲しかっただけなんじゃ
ねぇか、とか?」
中居が時折、言葉に詰まりながら説いたその説に、俺は思いっきり信じらんねぇ思いなんかも
感じながら。
いや・・・・その中居の読みも完全に外れちゃいねぇのかも知んねぇけど。
けど、俺の知る限り、吾郎は、そんな甘チャンじゃねぇ気がする。
ただ、顔見知りだからって理由で傍に置きてぇって思うほど甘い人間じゃあねぇ、っつーの?
吾郎が中居に対して下した判断がどう言うもんだったのかは分かり得ねぇんだとしても、それでも、
そんな甘い理由だけじゃねぇ事だけは確信が持てて。
にしても、中居が。
あの、中居が。
そんな風に吾郎の事を理解しようとしてる、っつー事の方が信じらんねぇ思いで。
秘書、っつーぐれぇのもんなんだから。
社長の居場所ぐれぇは知ってて当然のはずなんだから・・・・・・
そう思って繋いだ回線は、やっぱり、まるで示し合わせたかのように、吾郎のそれが伝えたのと
同じ音声信号を耳に伝えて来た。
時間は既に午後の8時に差しかかろうとしていて。
幾ら何でも、こんな時間まで仕事なんかあり得ねぇはずで。
そう思うにつけ。
居ても立ってもいられない不安に、俺は車のキーを手にまた、玄関に向っていて。
その刹那、落とし込んだジャケットの上着のポケットで携帯が振動してる事に気付いて、
着信者も確かめず勢い込んで俺はその回線を繋いでいた。
「吾郎かっ?!」
「・・・・・・・・・お生憎だったな、吾郎じゃなくて」
不貞腐れたような、いや、むしろ、苦笑を堪えるような、人をバカにした声音に、吾郎を
心配していた不安が極、一瞬だけ脇に押し遣られ、ムカッと正直に苛立ちが来る。
「・・・・・・中居」
「今、電話して来たべ?」
「・・・・・・・・・・」
「吾郎な、会議中だ」
俺が何も口にしねぇうちから、中居はいきなりその話題を振って来て。
「会議?今、何時だと思ってんだよ、嘘つくんならもうちょいマシな嘘つけば?」
ふと、時刻を確認して、呆れて口端に歪んだ笑みが浮いた。
「何で俺がお前に、んな、くっだらねぇ嘘こかなきゃなんねぇんだ?」
低く押し殺した声が、中居の不機嫌をモロに伝えて来る。
「突発的な問題発生で関係部署の部長以上の人間が集められてる。吾郎はそのトップに立ってる
人間だ。その対応を緊急に求められる席に居なくちゃなんねぇ事は当然の事だ」
「・・・・・・・・・・・・・」
「退社時刻と同時に退社出来んのはお気楽な平社員だけだ。立場が重くなればなるほど、
時間の制約は厳しく、拘束時間は長くなる。お前ら医者だってそうじゃねぇの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「とにかく吾郎は今、会議中だ。急ぎの用ならそれとなく伝えてやんねぇ事もねぇけども」
口ではそう言いながら、どうせ大した用なんかねぇんだろうが、と言外に匂わせて来るその
ニュアンスにムッとしたものは感じながらも。
「・・・・・・無事なら・・いいんだ」
低く一言だけ伝える。
・・・・・・そう、吾郎の無事を。
ただ、それだけを確かめたかっただけ、だ・・・・・・
「・・・・・・んだよ、それ。何、おめぇ、ひょっとして、まぁだ、吾郎の姿が予告もなしに
見えなくなるたんびに、そんな心配してやがんのか?!」
呆れたような中居の声音に俺は自分でもはっきり苦笑しながら。
「・・・・・るせぇよ。悪かったな、仕事中に邪魔しちまったみてぇで。悪ぃけど、くれぐれも
吾郎の顔色と呼吸には気をつけてやっててくれ。呼吸が浅く短く、何回も忙しなくなるように
なっちまったら、それ、危険信号だから」
「・・・・・・・・・ん、わーった」
一言だけ短く言って電話はあっさり切れた。
|