「木村くん、学会とか?」
いつものバイタルチェックに訪れた看護師に、殊更、何気ない風を装って。
そんな問いを投げた吾郎に
「いいえ。木村先生、毎日、ちゃんとご出勤よ」
看護師はあっさりとそう答えを返した。
「・・・ふぅん」
自分でも思いがけず感じてしまった落胆を表に表すまいと、いつもと変わらぬ素振りで
パソコンを起動させて。
「新しい患者さんが居てね、ちょっと色々と大変みたいよ」
看護師もまた、何気ない風を装ってそんな言葉を付け足してくれる。
「もう少しして落ち着かれたら、また、きっと、吾郎くんの様子も見にいらっしゃるわよ」
わざわざ、そう言い足されて、思わず
「誰もそんな事、言ってないでしょ?毎日のように来てたのが、急に顔が見えなくなったら、
どうかしたのか、って、少しは気になるの、当たり前だよね?!俺、何にも言ってないじゃん?!」
ムキになってしまった事で、全てを肯定していると分かっているのに、それでも、そんな風に
言い募らずにはいられない。
木村を主治医から外して欲しい、と医局長に直談判したのは他でもない自分自身で。
木村の担当する患者でなくなってしまったのだから、木村がこの病室を訪れない事も、何も
全然、不思議な事ではない。
けれども、木村は担当を外れてからも毎日のように、必ず、1度は顔を出したし、時間の
ある時などは今まで同様、この病室内に居る事がほとんどだったにも関わらず、ここ、
1週間ほどは一度も顔を見る事さえなかったから、もしかしたら、学会で、また、海外へ
出張でもしているのか、と。
担当でなくなったから、一々、吾郎にその事を報告する必然性もないから、自分に知らされ
なかっただけの事だったのかも知れない、と。
半ば、ほとんど、国内に居ないものとさえ思っていた。
ただ、その事を確認するつもりで尋ねたら、意外な答えが返って来て、自分でも自分で
驚くほど、落胆してしまった事を気取られまいと必死になっていたのに、そんな自分の
表情さえ読まれていた、と言う事も悔しくて。
「あら?余計な事、言ったかしら?ごめんなさい」
そう言いながらも看護師の目がほんのりと笑んでいて、まるで、聞き分けのない幼い子供
扱いされたような気がして、益々、機嫌は急降下して行く。
「心配しなくても、今でも、毎日、必ず一度は「吾郎の様子、どう?」って私達にお尋ねに
なるわよ、木村先生」
ダメ押しのように付け足されて、けれど、そんなセリフは聞こえませんでした、と言わん
ばかりに吾郎は猛烈な勢いでキーを叩く。
「あんまり、落ち込まないでね。また、すぐ、体調に異変を来たすんだから、吾郎くんの
場合は」
・・・・・何、それ。木村くんが来ないからって、拗ねて俺が体調を崩すとでも言いたい
訳?!
そんなセリフを口に出そうもんなら、また、何を言われるか知れたものではないし・・・
現に、木村が顔をださなくなってから、1週間。
ここ、2、3日は余り良くない兆候がちらちら、見え隠れしている事を、自覚してもいて。
正直、ほんの少し、不安を感じてもいない訳ではなかった。
そして、それが仮に事実であったとしても、そう言われたり、そう思われたり、そう理解
されるのは、面白くない気もして。
・・・・木村くんは関係ない。
・・・・木村くんが来ないせいで、体調を崩し掛けてる訳じゃない。
自分にそう言い聞かす。
その日の午後。
まるで、看護師が「吾郎くんが寂しがってましたよ」と木村に告げたのではないか、と
思えるようなタイミングで木村が病室に顔を覗かせた。
「どうしたの?何か用?」
余りに突然の、予想もしていなかった木村の訪問に、吾郎は不機嫌そうに眉を顰めた。
こんな風に顔を見るのも久し振りで、だから、何か身構えてしまう自分が居る。
どんな表情で、どんな態度で接すればいいのか、分からないで。
「そんな嫌そうな顔、すんなよな。そりゃあさ、お前にすりゃあ、担当でもねぇ俺が、
ちょくちょく、病室に顔出すのとかよ、あんま、面白くねぇのかも知んねぇけどよ」
少し肩を竦めて、僅かに傷ついた風を装って。
けれど、それが木村の本音、と言う訳ではなくて、いつもの吾郎をからかおうとする木村の
芝居だと言う事ぐらいは、吾郎にも分かっているつもりで。
「用があるから来たんじゃないの?」
以前は・・・・用なんか何もなくても、いつも、毎日、顔を見せてくれていたのに。
急に来なくなって、また、突然、訪れた木村に、自然な態度を取れない自分がもどかしくて
歯痒い。
本当は・・・・・
心の奥底、自分でも認めたくはない、本当は嬉しいと感じている気持ちを、それでも、
いやと言うほど自覚していると言うのに。
「まぁ、そうなんだけどよ」
用があるから来たんじゃないか、その質問に、恐らく、初めてではないか、という返事を
木村が返して来る。
「お前、パソコン、得意じゃん?」
今も立ち上げたままのパソコンを覗き込んで。
不意に木村の顔が自分の耳元のすぐ横まで近づけられて、前もそうした事は良くあったはず
なのに、久し振りなせいか、過剰な反応をしてしまう。
「ちょっと!何で、そんな顔、近づけんの?!」
「あ、いや、別に。ディスプレイ、見ようと思っただけだって」
「で?パソコンが何?」
「実はな、今、俺が担当してる患者に教えてやって欲しいかな、とか」
「ヤだよ。木村くんだってパソコンぐらい扱えるでしょ?何もわざわざ俺が教えてやる
事なんかないじゃん」
新しい患者さんが・・・・
看護師が言っていたセリフが簡単に思考回路の大半を占めた。
何か胸の奥にもやが広がるような・・・・少し胸の奥の方で冷たい風が吹くような感覚を
感じて。
「そいつな・・・お前と割りと似てるって言うか・・・・ま、守秘義務とかあんだけど、
もしかしたら、俺よりもお前の方がそいつの気持ち、とかも分かるかも知んねぇし、出来
れば、そいつとダチみてぇな感じになってもらえねぇかな、って。パソコンは、ま、半分
以上、口実だけどよ」
そばにあった椅子に腰を下ろして、ディスプレイをずっと睨んだままの吾郎を、斜め後ろの
位置からゆったりと見遣る感じで。
「・・・・・幾つ、その子」
「10歳」
「まだ、子供じゃない?俺、子供は苦手。好きじゃない。共通の話題なんかもないし、
簡単に友達になれるとも思えない。同情だとか、一時の気紛れで友達になろう、とか、
思わない方がその子のためだと思うけど?」
そんな言葉を返しながら、胸の奥でじくじくと何かが、滲み出して来る気がする。
それは決して心地良いものではなくて。
酷く、嫌な感じのするものだった。
熱くて苦い・・・・
重くて苦しい感覚。
「お前だってガキじゃねぇかよ」
含み笑いを漏らした木村に、益々、面白くない感情が加速して行く。
「そりゃ、26、7・・だっけ?のおじさんから見れば、20歳にもなってない俺なんか
まだ、ガキだろうけどね」
精一杯の皮肉を込めて、唇の端に薄い笑みを纏って。けれど、木村はそんな吾郎のセリフ
など軽く聞き流して。
「まぁ、そういう事だけどよ。そいつなぁ、ショックで口、利けなくなっちまってて・・・・・・」
その担当患者について説明をしようとする木村の声を慌てたように吾郎が遮る。
「守秘義務があるんでしょ?!俺にそんな話、すんのはマズイんじゃないの?俺でなくても
いいじゃん。他にもその子ともっと年の近い、共通の話題とかある子なんか幾らでも入院
してるよ。そういう子に頼めばいいでしょ?!」
もう、これでその事に関しては終わり、と暗に匂わすように。
少し荒い語調で言葉を叩きつけるようにして、会話を斬る。
「普通に親の居るヤツじゃダメなんだよ」
「俺にだって親ぐらい居るよ、一応。親って名のつく人間ぐらいは。幾ら俺だって卵から
孵った訳じゃないんだから」
何も、それ以上の事は聞きたくない、と思っているのに、木村はそんな吾郎の気持ちには
お構いなしに、言葉を続けようとする。
「じゃなくて。・・・お前だったら分かってやれんじゃねぇか、って思うんだよ。その
・・・・・」
言い掛けた言葉を、吾郎を気遣うつもりなのか飲み込んだ木村の後を次いで、吾郎が
木村が言いよどんだ言葉を口から放つ。
「親に愛されない子供の気持ち?!」
胸の奥から突き上げて来る熱い何かが、脳の神経を妬き切りそうな気がした。
「誕生日も祝ってもらえなくて、お見舞いにも来てくれなくて、お正月もクリスマスも
仕事で忙しくてうちにはいなくて、どこかのパーティーとかに呼ばれてて?!子供よりも
仕事が大事で子供が発作起こして死に掛けてても、大丈夫かの一言さえなくて?!ただ、
バカ高い治療費払って、一流の病院に入院させて、治療さえ受けさせてれば、親としての
面子も保てて、責任も果たしてるって思ってるような、そんな親の子供だからっ?!
そんな風にして親から愛された事がない俺だったら、おんなじような境遇の子供の気持ち、
分かってやれるだろう、って?!ふざけんなよっ!!」
「ちょっ?!落ち着けよ!!落ち着けって!!また、発作、起こすぞ、そんな勢いで
喚いたりだとかしたら」
「喚かせてるのは誰っ?!俺が発作、起こそうがどうしようが、もう、木村くんには何の
関係もないはずでしょ?!今はその新しい患者をどうにかして、救いたくて、その事しか
考えられないんじゃないかっ!!出てけよっ!!発作が起きたって処置すんのはお前なんか
じゃないんだからなっ!!」
冷や汗が額に滲む感覚。
指先が冷えて、唇から血の気が引くのがはっきり、感じられる。
そんな変化を木村に知られたくなくて、唇を噛み締めて、顔を背ける。
「出てけってば!ご期待に添えなくて悪かったね!」
肩で荒い呼吸を繰り返す。
まだ、大丈夫・・・・
まだ・・・・・
意識を失うほどの発作じゃない・・・・
このまま、静かに・・・・・
念じるように、祈るように、そう言い聞かせている自分の背中を行き来する木村の手を
感じる。
以前と変わらぬ、温かくて大きくて頼り甲斐のある優しい手。
ずっと、そうして、木村に助けられて来たのは自分だった。
それは木村の医者としての当然の義務と職責を果たして来ただけの事で。
それが木村の仕事。
以前、自分の担当だった木村はそうして自分の面倒を見てくれて、今はまた、新しい他の
担当患者のために人力しているだけの事。
医者として当たり前の事を木村は行っているだけの事。
その事を自分が悔しく思ったり、寂しく思ったり、面白くなく感じるのは、間違っている、
と。
今更、当たり前のそんな事を改めて、自分に言い聞かせてみる。
木村の言っている事は何も無茶な、筋を外れた事なんかじゃない。
頭の中に冷静さが戻って来るのと同時に呼吸も静かに整って来る。
「落ち着いたか?」
耳慣れた穏やかな声に頷きを返して。
「友達・・・に、なんかなれるかどうかは分からないけど・・・会ってみるぐらいはしても
いい・・・・」
そう。一度、会って、どうしようもなく、友人になれそうになんかない雰囲気を、木村だって
目の当たりにすれば、二度とこんなバカな申し出なんかして来ないだろうと思えて。
「何か、複雑な事情ありそうだけど・・・俺はどの程度、その子の周囲の環境を知って
おいた方がいい?何も予備知識もなしに・・・不用意に傷つけるような真似は出来れば、
したくない、とは思うけど?」
吾郎の言葉に木村は驚いたように目を丸くする。
「んだよ、いきなり・・・・つい、今さっきまで、あんなに怒ってたじゃねぇか。どういう
心境の変化だよ?いきなり過ぎねぇ?」
「俺、切り替えは速いんだよ。理解して・・・納得出来れば・・・なるべくそれに対応
するように持って行ける」
多少のわだかまりはあったとしても。
「ふぅん」
一声、低く声を漏らして、まだ、納得しているようないないような曖昧な表情でそれでも
木村は言葉を続けた。
「絶対に他言無用だけどな・・・親が無理心中しようとして、その子だけが助かった。
けど、まだ、何て言っても10歳だからな。親がいきなり、死んじまって、しかも、
自分も一緒に殺されかけたんだって気付いて、相当、ショック受けたらしくてな」
真っ直ぐに幸せに普通に育った木村が、酷く傷ついた風にそんな説明をして見せるのを
吾郎は酷く切ない思いで見詰める。
そう・・・・・
普通の人だったら、酷く、不憫に思える状況なんだろう、そういうのは。
決して、ハッピーな結末とは言い難いし、確かに当人は深く心に傷を負って、その傷は
恐らく、一生、癒える事もないだろう事も安易に想像がつくけれど。
「・・・・・幸せじゃん」
薄い息を吐き出すように・・・
自然に唇から言葉が零れ落ちた。
「そんな風にして、最後の最後にちゃんと親に自分自身の存在を忘れられないでいて、
一緒に連れて行ってしてもくれようとしたなんて、幸せじゃん・・・・・」
パンッ・・・・と。
乾いた軽い音が耳元で弾けて、頬に痛みが走る。
決して、本気で殴った訳ではない、軽く窘めるような、温かみの感じられる平手打ちに、
吾郎はそっと頬に手を当てて、木村を見上げる。
「そんな風にして、いつまでも傷つき続けないでくれ、っつーのは俺の勝手な願いなのか?
そんな風にして、いつまでも、親に拘り続ける事は、もうやめろって、親に何かを期待
すんのなんか、もう、すっぱり諦めちまえっつーのは、俺の無理な押し付けなのか?」
真剣で真っ直ぐな木村の眼差しが美しく見えた。
「・・・・そんなセリフ、吐くお前を見たくねぇ、っつーのは俺の我儘?そんな事にさえ
幸せを求めようとするお前を、もう見ていたくねぇんだっつーのは、これから先もぜってぇ
叶う事のねぇ俺の我儘なのか?」
真摯な言葉が胸の奥に静かに深く滲み込んで広がり、そこに灯ったほんのりとした温かみが
ゆっくり全身を包み込んで行くように。
そんな風にして、自分を思ってくれる、心配してくれる木村の気持ちが嬉しい。
望んでも決して、手に入りそうもないものなど、いっその事、諦めて、自分が自分の努力で
手にして行けるモノを、目指して行くのもそんなに悪くないかも知れない、と。
自分の興味の持てる事、自分が好ましいと思える事。
仕事でも趣味でも。
そうして、自分は自分を見詰めて、自分のために自分に与えられている時間を費やして
行く事も悪くないかも知れない、と思えて。
その事を・・・
そんな風にして自分が時間を過ごして行く事を、きっと木村も喜んでくれるはずなんだ、と。
そして、そうして、喜んでくれるであろう木村を見たい、感じている自分も確かに居る
事を、もう、認めざるを得ない。
「・・・・俺、その子と仲良くなれるかな・・・・」
木村を覗き込んだ自分に、返させたとびきりの笑顔がその事を信じさせてくれるようだった。
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