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【1】
「8月、と言えば・・・中居くんの誕生日、だよね?」
まだほんのりと湿度を纏ったままの素肌に黒の艶やかなバスローブを羽織って。
くるくるに癖の出た黒髪から、僅かに水滴を滴らせたまま。
片手に淡い琥珀色に弾ける液体を少し満たしたグラスを傾け。
独り言めいて洩らされた言葉は、けれど、こちらを向いて若干、首を傾げられた仕草で、
自分に向けられたものらしい事を感じながら。
木村は、この極一般的日本人の平均的生活スタイルから少しかけ離れたこの様を普通に受け
入れてしまっている自分に、人間と言う生き物の順応性の高さについて、チラ、と考えを
巡らせてみたりもする。
吾郎が医者を辞めて、本来目指していた後継者業に専念し始めた頃、吾郎の体調を気遣う余り、
何だかんだと理由をこじつけては押し掛け女房のように、吾郎の自宅マンションに出没する
木村に、吾郎が不用意に放った一言がきっかけで。
以前のような発作に見舞われてしまった窮地を木村が救い。
結果的に同居生活へ一気に流れが動いた。
自分のパーソナルスペースに他人が居る事に、始めは緊張していたらしい吾郎は、風呂上りに
下着1枚よりはもう少しだけ気を遣った木村の服装に対して、大抵は入浴後にもカッターシャツに
スラックスと言ういでたちで。
「風呂上りに何でそんなカッコな訳?」
と訝る木村の言葉を当然、意に介す様子すら見せず。
それが結構な期間を要した後、少し砕けてスウェットになり、極最近になって漸く、元来は
そうしたスタイルで過ごして来たらしいバスローブ姿を披露してくれるに至り。
初めてそのスタイルにお目に掛かった時には、さすがに度肝を抜かれる、とまでは行かないに
しても、唇に挟んでいたタバコがポロッと床に転がり落ちる程度には口をあんぐりと開けて、
マジマジとその姿に見入ってしまった木村が居て。
「・・・・・何?何か文句ある?」
そんな木村の露骨な反応がすこぶるお気に召さなかったらしい吾郎の、半目に凍えた眼差しに
射られ、慌てて首を左右に振って。
「や、別に、文句、とかじゃなくて。いや、こう、ちょい?驚いただけ、っつーの?日本で
自分の身近でそう言う恰好するヤツに初めてお目に掛かったもんで」
「楽でいいんだよ。でも、もし、木村くんがどうしても俺のこのスタイルがお気に召さない
って言うんなら、今までのスウェットに戻すけど」
「楽なんだろ?だったらそれで居ろよ。っつーか、じゃあ、今まで何でその恰好、しなかった
んだよ?」
「まぁ率直に言えば、木村くんの反応がちょっと心配だった、から?」
「心配、って?」
「笑われそうだ、とか」
「笑われたくねぇ、か、やっぱ?」
「ま、そう思ってた。でも、段々、そう言うのも面倒臭くなって来て・・・・まぁ、いっか、
笑われるのも最初の1回だけだろうし、って諦める事にして」
「ふぅん?」
「何?」
「別にぃ」
「何か・・・・・こんなに長い期間、一緒に居る事になるだろう、なんて始めは思ってなかった
事もあったしね。だとすれば、赤の他人にあんまり素の自分を晒すような事、したくないじゃん」
「・・・・・・・入院時代、散々、晒してもらってた気ぃすっけどな?いっつもパジャマだったし、
診察時には当然・・・・・・」
「む、昔の事、そんな風に持ち出すのは止めてよねっ!今更!!」
あわくって、仄かに顔に朱を滲ませて反論して来る態度が、諸に素で。
そう言う吾郎を目にして、木村はふっと唇に笑みをはく。
「入院してる時って言うのはね、ある意味、自我だとかの尊厳を冒されてる部分はどうしたって
否定出来ないよね?自分の意志じゃないじゃん。けど、そうせざるを得ない訳でしょ?見られる
のが嫌だからって診察を拒否する事なんか出来ないじゃん!」
悔しげに。
仄かな朱を帯びた顔色は、もう少しその色を濃くして。
鋭い眼差しが木村を射るように突き刺さる。
「・・・・・悪ぃ。そんなムキになんなよ。こっちも仕事なんだから。見たくて見てるもんでも
ねぇじゃん」
ふ、と。
気まずい空気が2人の空間を埋めて。
「・・・・・・何にせよ・・・あれは特殊な状況で、普段のプライベートにおいて、そうした
事を回避したい、回避すべきだって僕の判断基準は別に特別でも何でもない」
「・・・・・・だな」
そこまで頑なに、いや、本人にとっては普通に、自分との距離を置いていた吾郎が、漸く、
少しその距離を縮める気になってくれた訳だよな、と。
木村にとってはたったそれだけの事が、それでも、何より嬉しく感じられて。
最近ではそうしたスタイルを木村の前に晒す事も、吾郎の中でも比較的に当たり前にもなって
来ても居るようで。
「髪・・・・もう少しちゃんと拭いとかないと風邪ひくぞ」
そう進言しながら木村はタオルを取りに立つ。
ふぁさり、と髪の上から手にしていたタオルを被せてやって。
その上から頭の形を辿るように少しだけ力を込めて、濡れた髪の水分を乾いたタオルに移らせ
ながら。
意外におとなしく、されるままになっている吾郎の、タオルに隠れた視線をちょっと覗き込み。
「ありがと」
目が合って、ふわっと眼差しに笑みを滲まされて。
余りにまともに視線がぶつかり合った状態のまま、それをされて、さっと木村の顔に朱が上った。
・・・・・普段、あんま笑わねぇヤツの、こう言う不意打ちって、何か・・・・・
なぜか顔に熱が上った事は自覚症状としてあったから、その訳をそんな風に胸の中で理由付け
しながら。
「何でそこで木村くんが赤くなる必要があるのかが、僕には理解出来ないんだよね」
呆れたような声が露骨に吐き出されて。
「うっせ。大体、お前が急に笑ったりするから!」
「僕が笑うと木村くんは赤くなる訳?」
「じゃなくて!ふ、不意打ちだからよぉ!いっつも!いっつもそうやって笑ってりゃあ、俺
だって一々、驚かねぇっつーの?」
「意味もなくへらへらと、いっつも笑ってられたりなんかしたら、気味悪いと思うけどね、
僕は。バカみたいじゃん、そんなの」
「じゃくなくて!あー、もういい!!で?8月が何だって?!さっき何か言い掛けてなかったか?!」
都合の悪い事はさっさとぶった切るに限る!
そうして木村はさっさと話題を転換した。
「8月、と言えば・・・中居くんの誕生日、だよね?って言ったの」
「中居の誕生日、って・・・・何でお前、そんな事まで知ってんの?」
今までのおふざけモードよりもまだ、少し真剣みを帯びた木村の不機嫌具合が薄っすらと
伝わって来て吾郎は内心で少しだけ首を傾げる。
何も木村の機嫌を損ねるような発言を、自分はしていないつもりで。
「履歴書見たから。その時に何となく情報の一端としてインプットしてあって」
・・・・・・お前の頭はコンピューターか何かなんですかね?んだよ、インプットとかよ。
で?今、それをアウトプットしてる訳?
「いつもお世話になってるからねぇ、中居くんには。たまにはちょっと労を労うって言うの?
何かしたいかなー、と思ってて。誕生日ってそう言う事にうってつけじゃない?」
手にしていたグラスの淵に少しだけ唇をつけて。
にっこりと微笑んでみせる笑みに、うっかり見惚れてしまいそうになり。
「中居くんて・・・・どう言うの、喜ぶかなー、って」
思いの外、嬉しそうにそう尋ねられて、つい・・・・・・
「あ、中居くん?」
手にしていた報告書に熱心に目を通している傍らで、ふと思い出したように呼び掛けられて。
「はい?」
苦手なパソコンと格闘していた手を止めて中居は顔を上げた。
「18日だけど残業、頼めるかな?」
「はい」
即答した中居に吾郎はちょっとだけ小首を傾げ。
一瞬だけ何かを言いたげに動かされかけた唇が継いだ言葉は。
「そう・・・?大切な大切な接待があるからさ。銀座の〇〇、1テーブル、リザーブしておいて
くれる?時間は19時。なるべく良い席がいいな」
「分かりました」
早速、携帯を取り出し。
今、指定された店の番号を検索し、予約を入れて。
「店内の1番良いお席にご案内させて頂きます、との事です」
端的にその報告をして。
「ありがとう。悪いけど中居くんもその席に同席してもらう事になるから」
「は?」
これまでも、社長秘書として、そうした事がまるで皆無、と言う事はなかったにしても。
そう言う場が事の他苦手な中居にとっては、出来ればそれは避けたい仕事の第一番目でもあって。
「・・・・あ・・・・はぁ・・・・」
正直に苦虫を噛み潰したような表情を見せる中居に、吾郎は意図的にやんわりと目元を細めた。
「そんな露骨に嫌そうな顔する事ないでしょ?これも秘書として大切なお仕事だよ?」
分かり切った事を突きつけるように。
やんわりと微笑む、そんな吾郎の笑顔が1番タチが良くない事を、中居は秘書をさせられる
ようになってから、思い知らされてもいて。
「中居くん、身映えがいいからねー。連れてくと取引先の女性が喜ぶの」
・・・・・・嘘こけ、嘘を。身映えなんざぁ、てめぇ1人でも十二分に釣りが来るぐれぇ
だろうよ・・・!!
第一、そう言う場面によっぽどでもねぇ限り、オンナなんか来ねぇよ!
秘書の立場として許されない言葉遣いでもって、内心でそんな反論を描きつつ。
「あの・・・・身映え、と仰るんでしたら、木村、くんとか・・・・彼の方が先方も喜ばれる
のでは?」
昔からずっと呼び捨てて来た悪友を、今更、君付けで口にしなければならない理不尽さを
噛み締めながら。
ちっくしょー、木村のバカヤロー!!何で医者として何不自由ない生活だったくせしやがって、
この年になってリクルートとかして来やがんだ?!
その理不尽さは当然、その元凶である木村へも飛び火している。
「バカ言わないでよ。彼なんか連れて行こうもんなら、僕が翳んじゃうでしょ?」
にっこりと。
目が笑っていない笑みを投げつけられて、う、と言葉を詰まらせつつ、中居は内心で盛大な
溜息をつく。
「第一、彼は秘書じゃないしね」
そして、それは今更、吾郎に言われるまでもなく、良っく分かっている。
昨年の年末、仕事のし過ぎで体調を崩してしまった吾郎を案じて。
吾郎のそのの仕事の半分を自分が肩代わりする、と言って無謀にも転職を決めた木村は、
そうした実質的な実務面でのサポートに徹っして居て。
「あいつはなぁ・・・吾郎な。自分の能力が桁外れな分、人に仕事を任せるっつー事が出来ねぇん
だよ。言葉は悪ぃが、人を信頼出来ねぇっつーの?だから、あぁして何から何までぜぇぇぇんぶ
自分で把握してなきゃ気ぃ済まねぇで、抱え込んでは、それでなくたって、実務以外のな、
やれ、接待だ、やれ、パーティーだって。周りから見てりゃあ、それこそバカバカしい事
この上ねぇ仕事?にまで振り回されて、っつーか。吾郎の立場だったら、専らそっちがメインで
当たり前っつーの?一見、そうしたバカバカしく見える事の水面下でおっそろしいぐれぇ無言の
丁々発止?だとかな。良くやってるわ、って思ぉもん、俺が見てても。あーんな表面上、
にこにことおべんちゃら並べ立ててるその裏で、どんなにあくどい画策してやがんのか、とか
そう言う事を見極めて、先手打ってその対応に出てやがんだから。ふっつーの神経の持ち主じゃあ、
半日もやってたら神経ズタズタになっちまう、っつーの」
吾郎の職責に関して、木村が中居に情報提供を求めた時に、中居から聞かされた話がそれ、で。
・・・・・いや、それはお前だからそう感じんだろうけど・・・・・
と、その感想は胸に仕舞って置くとして。
「あいつがな、だから、実務面で相手を信頼して仕事を任せられる人材?そう言うのが出て
来りゃあ、言う事ねぇんだろうけど。あいつもなー、人を育てるってタイプの人間でもねぇん
だよなー。なんつーの?自分が何を教えられなくても勝手に理解出来ちまう性質だろ、あいつ?
だから、教えられなきゃ分かんねぇ?教えられたって一度じゃ理解出来ねぇ相手の気持ち?
だとか、てんで理解出来ねぇんだよ。つか、する気がねぇ?挙句の果てに何で分かんないの?
あんなヤツに仕事なんか任せられない!ってなってな」
聞けば聞くほど頭の痛くなりそうな現実で。
けれど、中居の説明してくれる吾郎が、余りにも的確で、さすがに妙に良く吾郎を理解して
やがんだよ、こいつはよ、と。
本来なら感謝すべき所で、何となく、もやもやと面白くない思いを抱いてしまう事に関しては、
敢えて深く追求する事は避けて。
「お前に出来んの?あの吾郎を納得させて、吾郎が仕事を任せても大丈夫だって思わせるように
なれんの?お前?」
「なれる、なれねぇじゃなくて。なるんだよ」
「・・・・・・あっそ」
他に何も言葉がない、と言わんばかりに中居は肩を竦めて見せて。
けれど、その言葉が決して、実現不可能な世迷言でない事を中居は思い知ってもいる。
そうして、こいつはなるに決まってんだよな、吾郎が一生、手放せない、と思わされる逸材に。
公私共に、信頼して止まない無二の人間に。
無理矢理、秘書をやらされる事になった自分とは違って、自ら望んで。
それほど・・・・吾郎によってもたらされた生きる事、生きている事と言うのは木村にとって
大きな意味を成したんだろうか、と。
ふと、過ぎる疑問は同時に、そうした、自分の何を擲ってでも、と思わされる相手と巡り会えた
奇跡に変換されて、無性に羨ましく思えなくもなくて。
こいつらがもし、男と女だったりとかしたら、やっぱ、結婚とかしたりしたんかねぇ・・・・
ふっと湧き上がった思考をほんの少しだけ弄んでもみて。
僅か半年余りの期間に、木村は自分で高らかに宣言した通り、メキメキと頭角を現して。
吾郎の片腕になる日も決して、そう遠い将来の事でもない、と周囲の誰もが認める存在に
なりつつある。
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