いつものように部活を終えて、この季節、既に陽が落ちて辺りはもう、夕間暮れを過ぎた
薄い夜の闇が忍び寄っていて。
吐く息が白く濁って、一層、帰る道のりを急いでいる最中、ふと、違和感を感じて。
「あっ?!」
その違和感が携帯を忘れた事だと気付く。
「悪ぃ。携帯、部室に忘れちまった。取ってくっから、先、行ってくれ」
同じ方向だからと連れ立っていた部活仲間にそう言い置いて、俺は慌てて、今来た道を
取って返す。
「だっせー!!」
「バーカ!!」
「ドージ!!」
言いたい放題の悪友達の声に後ろを振り返って、拳骨を振りかざすマネをして見せて、
また、俺は学校までの距離を急いだ。
幸い、職員室にはまだ顧問が残ってて、部室の鍵を借りて無事に携帯を手にし、ふと、
道場の方から仄かに明るい光が漏れて来ているのに気付いて。
・・・・・誰か残ってんのか?
誘われるように俺はその灯りの方に近づいて行く。
投光機の投げ掛ける光が暗い道場を照らし出し、的までの軌跡を真っ直ぐ示して。
月の灯りの中に浮かび上がる真っ白な胴着を身に着けて、矢を番えるその姿に自然と
視線が捉えられる。
明るい昼間に見るのとはまるで違う、淡い陰影を刻むその憂いを帯びた横顔に、思わず
息をする事さえ忘れて魅入ってしまい。
的を捉える真っ直ぐな眼差しは深く澄んで、時が止まったような錯覚さえ感じて。
呼吸を整えて、全ての動きが静止した次の刹那、指から矢が離れ、的の中心に向かって
綺麗な弧を描いて放たれたそれは、当たり前のように吸い込まれるように的の中心に
突き刺さる。
それを確かめて、ほっと緊張を解き、嬉しげに満足げに細められた眼差しに、へぇ・・・
と、心の中で声を上げた。
こいつでも、的の真ん中を射抜いた瞬間、あんな子供みたいな嬉しそうな顔をするんだ、
と。
少し意外な気もして。
的に向かい、深く頭を下げて、また、次の矢を番える。
流れるような無駄のない美しい動き、静止して的を捉え静かに呼吸を整えて、矢を放つ
瞬間に見せる、ほんの一瞬の射るように鋭い眼差し。
あんな風に。
真摯な眼差しで的に対峙しているヤツだとは、正直、知らないでいた。
物事に対して、何かに対して、熱くなる事などない、と明言しているその言葉の通り、
いつも、何気なく矢を放って、何気なく的の中心を射抜いているように感じていた。
なんとなく・・・・
そういう空気をいつも滲ませている気がしていて。
必要以上に熱くなんかなったりしないんだ、と。
それはまるで、そいつ自身がそいつに言い聞かせているようでもあって。
けれど、今、目の前にいるこいつは、静かに熱く燃えているようにさえ思える。
そうして、立て続けに5本ほど矢を放って、漸く、そいつは構えを解いて、弓を指定の
場所に戻し、道場の端に腰を下ろした。
それにしても、相変わらず、見事過ぎるほど見事な腕前。
部長が学年に関係なく、試合に出させたい、と切望する気持ちが嫌と言うほど理解出来る
気がした。
もちろん、こいつには今年だけじゃなくて、来年もチャンスはある訳で、今年しかもう
チャンスのないヤツからすれば、それはあり得なくてもいいチャンスではあるけれど。
「よぉ?」
道場を囲っている低い垣根を乗り越えて、道場の板の間の端に腰を下ろしていたそいつの
隣に俺も同じように腰掛けて。
「・・・・・また、君?」
うんざりしたように、呆れたようにそいつは温度のない笑みを浮かべた。
「こんな時間に・・・・」
言い掛ける俺の声を遮るようにヤツは
「許可はもらってるし、鍵も預かってる。明日、朝、一番で返す約束になってて」
言い訳するように早口でそんな説明をして見せる。
「昼間は忙しかったのか?」
ずっと前を捉えたままの視線の先に、少しだけ強引に自分の顔を割り込ませて。
これ、と言った意思の感じられない瞳の中に自分が写し取られるのを確認しながら。
「わざと外した。試合が終わるまでは、部活の時間には重ならないようにするつもり。
元々・・・・部活の時間じゃない開いている時に打たせて欲しい、って先生にはお願い
してたんだけど、他の部員達のいい刺激になるはずだから、ぜひ、って言われて。こっち
としても無理通させてもらう立場でもあるから、あんまりそういうの、無碍にも断れなくてさ。
始めから、部活の時間帯に出て来るのは気が進まなかったんだよね」
疲れたように肩を竦めてほんのり口元に笑みを浮かべて。
けれど、それは笑みと呼ぶには余りに寂しいそれではあったけれど。
「お前ほどの腕前があんだったら、真剣にやってみりゃいいじゃん?部の連中だって喜ぶぞ」
「だから。前にも言ったじゃない?そんな事には興味ないんだよ、俺」
「お?今日は僕じゃねぇの?」
「・・・・今更、君の前で優等生の仮面、被って見せる必要もないでしょ?散々、醜態
晒したし。他に誰も居ないし」
「へぇ?進歩じゃん?お前、意外に早いな、そういう切り替え」
「進歩って言うのとは違うでしょ?俺にとっては退歩だと思ってる。切り替えは・・・・
早い方だと自負してる。早くないと、やってらんない、色々と」
何かを吐き捨てるように、僅かに口調が荒れて。
「色々と?溜め込んでんじゃねぇの?」
「溜め込まないようにここに来てる」
「へ?」
「俺にとっては、ここはストレス発散の場所なんだよね」
「は?」
「的をね、ヤなヤツになぞらえて、バカヤロー、死んじまえー、こんちくしょー、ふざけんなー、
って・・・・そういう事思いながら、矢、打ってんの、俺」
「・・・・・・」
一瞬、呆気に取られて、次の瞬間、思いっきり爆笑していた。
おもしれぇ!!
信じらんねぇぐれぇ、おもしれぇじゃん、こいつ!!
あーんな真剣な眼差しで、んな事、思ってやがったんだ。
人は見かけによらないの代表みてぇなヤツって思ってたけど、まさか、矢を番えてる時
までそうだったなんてよ。
誰が想像するよ?!
あの綺麗な眼差しの、あの流麗な構えの、あの綺麗な横顔の向こうで、こいつがそんな事
思いながら、矢を打ってる、って?!
あー、おんもしれぇ・・・・
腹、痛ぇ・・・・
笑い転げる俺の隣で、そいつは居心地悪そうに少し身動ぎして。
「俺、何かそんなにおかしな事言ったかな?」
気分を害したらしい声音と、少し拗ねたような表情が、ガキっぽくて。全然、自覚のない
とこがまた、笑える。
俺らとおんなじ、まだ、ガキなんだよなぁ、って。
何かその事が嬉しかった。
「お前、信じらんねぇぐれぇ面白ぇぞ、マジで」
「・・・・・そんな事、ないでしょ?」
「いや、俺、初めてだわ、こんなに笑わしてもらったの」
「・・・・・あ、そ。そりゃ、良かったね」
むっとしたように表情を尖らせて、ヤツは腰を上げた。
「だからね、マジメに部活動やってる君達に申し訳ないでしょ?そういうために矢を
放ちに来てる俺が試合に出たり、だとかね?俺、コンスタントにあんな風に矢を打てる
訳じゃないんだよ。そういう気分の時だから、凄い集中力が発揮出来て、的を射抜いて
いるだけの事でね、そういう気分の時でなきゃ、外し捲くりなの」
意外に素直な笑顔でそんな打ち明け話を俺に聞かせて。
次の瞬間、また、そいつの表情が温度をなくす。
「なるべく速く、気持ち、切り替えちゃわないと、間に合わなくなるんだよね・・・・
追い詰められる・・・・色んなものに」
低く沈んだ声は辺りの闇に吸い込まれそうなほどに弱くて。
壊れそうに脆くて。
思わず両腕の中に、その華奢な身体を捉えたくなる。
大丈夫だって。
何も心配する事ねぇんだって。
不意にそんな事を口走りたくなる。
「なぁ・・・・・もうちょっと、力、抜けよ・・・・」
立ち尽くしているそいつの目の中を捉えて。
「もうちょっと、我儘に・・・自分の気持ちに正直に生きても、バチ当たんねぇと思うし、
お前の親だって、それぐれぇ許してくれんじゃねぇの?」
「・・・・親に強制されてるつもりはない、けど・・・・俺は自分で納得して自分で
この道を選んで、自分でこの道を歩いてるつもり。ただ・・・・まだまだ未熟で色々と
自分の中で対応しきれない事があるだけ・・・・慣れてる事、今まで何でもなかった事が
息苦しく感じられたり、だとか・・・・年を重ねるに従って色々と、今まで見えなかった
ものが見えるようになんかもなって来たりだとかして・・・・色んな感情にどう、折り合いを
つけていいのか、分からなくなる時があるだけ」
白い息が凍える言葉達を彩り、夜の静寂がシンと射すように鋭い空気を辺りに満たして。
今、この瞬間、世界にただ二人きりのような錯覚を起こしそうになる。
「お前、カラオケとか行った事ある?」
どうして、自分が不意にそんな質問をそいつにしたくなったのか、自分でもよくは分かんねぇ
けど。
「カラオケ?」
不思議そうに首を傾げてそいつはくりん、と目を見開いて。
「そう。カラオケ」
「ない」
驚くほど端的な答えに、ちょっとつんのめる。
「行かねぇ?」
「今から?」
「おぅ」
「今、何時?」
「7時過ぎ」
携帯で時間を確認して、そう答える。
「7時過ぎ、か・・・・ゼミ、もう始まってるんだ・・・・」
ほんの少しだけ、困ったように眉を寄せて、そいつはつい、と顔を上げて空に浮かぶ月を
見詰めた。
真ん丸くて、色素の薄い、冬の月。
煌々と闇の中に確かに明るい光を放っているのにも関わらず、今にも消えてなくなりそうに
儚い様は、今、俺の目の前にいる薄い、華奢な後輩に似て。
「今日は何だか届きそうに近いね、月」
全く、前後と何の脈絡もないセリフが零れる薄い形のいい唇に、吸い寄せられるように
視線が留まる。
「矢を放てばさ、射抜けそうじゃない?」
不意に。
全くの突然、子供っぽい悪戯っ子のような表情を見せて、そいつは仕舞ったはずの弓を
もう一度、持ち出して来て。
「あ、バカ。やめ・・・・」
静止する俺の声などまるで聞かずに、その月に向かって矢を射った。
中空に浮かぶ綺麗な月に向かって、真っ直ぐ飛んだ矢は、やがて、重力に逆らえず、緩やかな
弧を描いて地面に突き刺さり。
「あっぶねぇ。お前、どこに矢、打ってんだよっ?!もし、万が一の事とかあったら
どうすんだっ?!」
力任せにそいつの手の中から弓を奪い取り、そそくさと片付けて。
「やっぱり、届かないんだね?あんなに近く見えるのに」
自分のしでかした事の恐ろしさなど微塵も感じていないように、そいつはぼんやりとした
弱い口調でそんなセリフを吐いて。
「たりめぇだろぉがっ!!現実には何万光年も離れてんだよっ!!漫画じゃあるまいし、
お前の打った矢が刺さって堪るかっ!!」
余りにバカバカしい物言いに疲れて、俺は道場の固い冷たい床に大の字になって転がった。
ほんとに・・・・意味、分かんねぇわ、こいつ・・・・
何、考えてやがんだよ?
溜息をついて瞼を伏せ、ふと、唇がタバコを欲しがっている事に気付く。
そう言えば、最近・・・・
こいつと居る時にはタバコの事なんか思い出しもしなかったな。
そんな記憶が過ぎって。
「帰ろう、っと」
僅かな呟きが耳を掠めた次の瞬間には、もうそいつの姿は道場の入り口近くまで遠ざかって
いて。
「え?!あ、おいっ!ちょ?!待てよ!!カラオケは?!」
慌てて半身を起こした俺に
「それじゃ。木村先輩、お先に失礼します」
嫌味たらしく道場の入り口で深く頭を垂れて。
普段、優雅な、と言えば聞こえはいいけど、とろくさい、とも言えなくない動きのそいつの
姿が余りにも簡単に消えてしまった事に驚く。
けど、次の瞬間、俺の口元には笑みが浮いて。
ふん。あれで俺を捲いたつもり、とか言う?
肝心な事、忘れてるよなぁ、あいつ。
着替えなきゃ帰れねぇだろ?
着替えして出て来た所をもう一回、捕まえりゃいい訳じゃん。
もう一度、道場の低い垣根を乗り越えて、ゆっくり道場の周りを巡って部室の前に辿り着く。
胴着から制服に着替えたそいつが部室のドアを開けた瞬間の間抜け面、俺、一生、忘れ
ねぇんじゃねぇか、って。
「な、んで?」
「だから。カラオケ」
「まだ、言ってたの?」
「もう、ゼミ、始まっちまってんだろ?今から行ったって、どうせ遅刻じゃん。だから、
今日はもう諦めて俺に付き合えよ」
逃げらんねぇようにがっちり、二の腕掴んで。
「何で?何で俺にそんなに構うの?俺と居て楽しい?面白い?」
「楽しいかどうかはちょっと分かんねぇけど、面白ぇよ、マジで。何つーの?お前、見てて
飽きねぇ。ほら。何つーのかなぁ。子犬?すげー、やんちゃ盛りの子犬とか。ずっと、
見てても飽きねぇの。次、何しでかすか、どんな行動に出るか、全く読めねぇんだよ。
突然、突拍子もねぇ事とかし出して、危ねぇ事とかやってても、自分じゃ気付いてねぇの。
すげー、危なっかしくて、目ぇ離せねぇ感じ?ちょっと、そういう感じに似てっかな、
お前」
「犬?犬と同列に扱われてるんだ、俺?凄い侮辱。屈辱的」
露骨に唇を戦慄かせて(わななかせて)、とんでもなく敵意を剥き出しにした鋭い瞳で
睨みつけられて。
「あ、いや。犬と同列って・・・勘違いすんなよな。俺の今のは褒め言葉、っつーか」
「どこが?!今のあれのどこが褒め言葉なんだよっ?!」
感情的になって声を荒げるその様が何か、ちょっと嬉しい気がするってのも変な話だけど。
けど、こいつのこういう顔、知ってるヤツって案外、少ねぇんじゃねぇか、とか思うと、
どことなく、心地良く自尊心をくすぐられる気がする。
「俺、犬、すげー好きで。だから、俺に言わせりゃ犬に似てる、って最上級の褒め言葉」
「仮に百歩譲って、君の中ではそうなんだとしても、考え方、改めた方がいいよ。犬と
同列に扱われて喜ぶ人間はそんなに多くはないだろうからね」
忌々しげに尖った瞳のまま、可愛げのない物言いで。
けど、そんな態度を見せられながら、腹の立ってねぇ自分に、ちょっと不思議を感じて。
「わーた。改める。もう、犬に似てる、とか言わねぇから。それだったらいいんだろ?」
「何がいいの?」
「だから、機嫌直して俺に付き合えって」
華奢な薄い肩に腕を回して、心持ち力を込めると、簡単に俺の肩先にそついの肩がぶつかって
来て。
「ちょ?離してよ。歩き難いじゃん」
鬱陶しそうに何度も俺の腕を払い除けようと肩をしゃくる動きを、手に力を込めて抑え込んで。
「君と一緒にカラオケなんか行った、とか親に知れたら、何言われるか分かったもんじゃ
ないよ」
深い溜息と一緒に吐き出された言葉には、けれど、その事を否定して、抵抗する空気は
なくなっていた。
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