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「・・・・・おはよぉ・・・・」
寝ぐせだらけの頭で、まだ、寝ぼけ眼の吾郎がぼんやりとした口調で朝の挨拶を口に乗せ、
ダイニングの椅子を引き、崩れるようにしてテーブルに突っ伏す。
そんな吾郎の身体を除けて、危険の及ばない適度な距離の場所にカフェオレのカップと
ライムジャムを塗ったトースト、更にコールスローの小鉢と、スクランブルエッグ、
香ばしく焼いたウィンナーが乗った皿を、手際良く無言のまま、拓哉がセッティング
して行く。
いつも見慣れた、いつもと同じ朝の光景。
朝が特別苦手と言う訳ではないけれど、原稿の締め切りギリギリでほぼ貫徹状態の朝の
吾郎はいつも、こんな様子だ。
「ほら、朝メシ食えよ」
全てをセッティングし終えた拓哉が軽く、吾郎の髪をなぶる。
うざったそうに拓哉の手を払った吾郎がおもむろに身体を起して、半目で拓哉を睨みつけ。
「髪、弄んないでって何回、言ったら分かってくれんの?」
明らかな抗議を拓哉は笑ってやり過ごす。
「どうせ、まだ、セットしてねぇだろ?ぐっちゃぐちゃだぞ、お前の髪。何だったら、俺が
セットしてやろうか?」
わざわざ、吾郎の髪を乱暴にかき回して、拓哉が悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「もう!!やめてったら!!嫌だって言ってんでしょ?!」
少し高めのヒステリックな吾郎の声がリビングに響いて、朝食を終えて新聞を読んでいた
正広の神経を逆なでする。
「うっせぇよっ!!朝っぱらからじゃれてんじゃねぇよっ!!」
「ちょっと?!拓にぃのせいで広にぃに怒られたじゃんよ?!」
「お前が細かい事でごちゃごちゃ言うからだろうが?!」
「拓にぃが悪いんじゃん!いつも俺が嫌がる事分かってて、髪とか弄るからっ!!」
「ぐっちゃぐちゃなお前の髪、見てっと、つい、弄りたくなんだよ」
「何だよ、それ?!凄い迷惑っ!!」
「俺の愛情表現だって」
「いらない!そんな愛情表現だったらいらないよっ!!」
「かっわいくねぇ!!俺がこぉんなにお前の事、可愛がってやってんのに!!」
「頼んでないもんっ!!」
「何だとぉ?!」
正広の怒声など気にも留めずに、相も変わらず、そんなやり取りを繰り返している二人に
堪らず、正広が手にしていた新聞を投げつける。
「いい加減にしろっ!!」
そんな、ある意味これもまた、いつもの朝の光景に割り込んで来た、春の風、ならぬ
穏やかな剛の声。
「おはよう。何、朝っぱらから叫んでんの?みんな、元気だねぇ」
余りに呑気なその声に、朝っぱらから元気な喧騒を繰り広げていた3人は暫し、互いに
顔を見合わせ、誰ともなしに薄い苦笑を漏らして。
吾郎が溜息をつき、再び、テーブルに突っ伏す。
「吾郎にぃ、また、徹夜だったの?」
「・・・・・ん」
ぼやけた声でテーブルの上に作った両腕の枕の中で、剛の質問に頷ように軽く、もぞもぞと
頭を動かした吾郎が、また、ゆっくりと顔をあげて。
「・・・・・そう言えば、剛がこんな時間にうちに居るなん珍しいね?朝練、休みなの?」
「テスト1週間前だもん。部活、休みだよ」
「・・・・・そっか。テスト・・・か・・・・」
自分も同じ高校に通う生徒のくせして、まるで他人事のように呟いて、また、腕枕の中に
顔を埋めた吾郎がくぐもった声で更にセリフを続ける。
「剛ぃ・・・悪いけどさぁ・・・・今日、一緒に学校まで行ってくれない?」
「学校まで一緒に?」
極、僅かに上擦った声を慌てて、普段の声に取り繕うようにして剛は
「いいけど、何で?」
と、問いを重ねる。
「電車の中で寝ちゃいそうだからさ・・・・起こして」
ほわほわと頼りない口調で続ける吾郎の言葉を遮るようにして
「んだよ、だったら、俺が学校まで車で送ってって・・・・」
言い掛ける拓哉に
「拓!!」
鋭い正広の一喝が飛ぶ。
そんな正広に拓哉もまた、忌々しげに剣呑とした視線を返しはしたけれど、結局、肩を
竦めてテーブルから離れた。
二人のそんなやり取りを息を殺して見ていた剛が、気を取り直したように
「それぐらいお安いご用だけどさ」
と答えを返して。
「ほんと?良かった。宜しく頼むね?」
安心したように呟いた吾郎が、おもむろに顔を上げ、用意された朝食に漸く、手をつけ
始めた。
「吾郎にぃ!仕度出来たぁ?!そろそろ出ないとヤバイ時間だよぉ!!」
玄関先で剛の声が響く。
「今、行くぅ!!ちょっと待って!!」
洗面所から吾郎の声が返って。それから更に数分後。
「吾郎にぃ!!」
何度目かの剛の声が家中に轟いて。
「お待たせぇ」
全く悪気を感じさせない呑気な吾郎の声が届く。
「あ、剛、自転車で行くよね、もちろん。後ろ、乗っけてね」
そんな吾郎の声にリビングにいた他の3人が肩を竦め、それぞれに溜息をつく。
「つよぽんてばさ、完全に吾郎ちゃんにいいように使われてるよね」
ミルクティーの入ったカップを両手で持ったまま、慎吾が呆れたように笑う。
「そう言うお前は?ガッコ、行かねぇのかよ?」
タバコを唇に挟み、ライターの炎を翳しながら、正広が低く問う。
「彼女がさ、一緒に行こう、って言うからさ。彼女に時間、合わせてんの」
「間に合うのかよ?」
「たぶん」
しまりのない顔で頷く慎吾に、正広は既にして何も返す気力を失っていて。
「ところでさ、広にぃは?仕事、行かなくていいの?こんな時間にいるなんて、珍しいよね」
話を振って来る慎吾に
「あ?俺か?俺は日頃の献身的な勤務態度が功を奏して、今日は、社長出勤でクライアントに
直行直帰でいい事になったんだ」
紫煙に目を細めて正広はそんな説明をして聞かせる。
「ふぅん」
「ま、な。兄貴は仕事の鬼だかんな。会社の上司もよぉくその辺の事分かってて、わざと
こういう形で兄貴に休養取らしてんだよ。いい上司だよな?」
拓哉が得意げに、訳知り顔でそんな説明をぶつのを、正広は苦虫を噛み潰したような顔で
聞いていたけれど、それでも、敢えて、拓哉のそんな言葉を否定はしなかった。
「そう言や、お前、一人前に彼女って。どんな子なんだよ?どうやって知り合った?」
拓哉がにやり、とシニカルな笑みに表情を彩らせて慎吾を覗き込む。
「あ、ねぇ、聞いて、聞いて。むっちゃくちゃ可愛い子なんだよ。胸がおっきくてさぁ、
こうね、ちょっと前屈みになったりすると、谷間とか覗けそうになんの」
「へえ?ナイスバディ?」
「うん、かなり」
「で?きっかけは?」
「きっかけは吾郎ちゃん」
「「は?」」
兄二人の声が重なる。
「最初、吾郎ちゃんの弟でしょ?って声、掛けられた」
「・・・・で?」
「え?うん、そうだよって話になって、それから、色々と盛り上がって、一緒にカラオケ
とか行って」
「・・・・で?」
「すんごい話とか合うんだよね。今度、うちにも遊びに来たいって言ってた」
「・・・・お前、そいつに好き、とか言われた?」
「具体的にそういうセリフとか言われた訳じゃないけど、そんなの見てれば分かるじゃん。
俺と話してる時とかさ、凄い楽しそうで嬉しそうだしさ、俺の事、学校とかで見かけたり
だとかしたら、すんごい嬉しそうに手、振ってくれたりだとかするんだよぉ。デートとかも
したしさ、もう、絶対にそうに決まってるじゃん!!」
幸せそのもの、と言った顔で力説する末っ子に、兄二人は互いにしか分かり得ないような、
物言いたげな視線を交し合って。
・・・・・・いいように使われてんのは、お前もおんなじだと思うぞ・・・・
まんま、同じセリフを兄二人が胸のうちに描いて、溜息をついている事には、慎吾は気付かない。
「ま、仲良くしろよな」
「いつでもうち、連れて来てOKだけどな」
長兄と次兄の声がそれぞれ、低く渋く末っ子の耳に届けられた。
駅までのそう遠くない道のりを自転車を飛ばしながら、ふと、背中に温かいぬくもりを
感じて、剛は少し首を後ろに捻り、声を張り上げる。
「吾郎にぃ?!寝ないでよっ!!危ないから!!」
「起きてるよぉ!こんなに飛ばすのに、怖くて寝てらんないじゃん!!」
聞き様によってはちょっと不貞腐れたような、ただ、自分と同じく声を張り上げて返して
いるだけなのかも知れない吾郎のセリフに剛は内心で
・・・・・だって、吾郎にぃのお陰でこんなギリギリになっちゃって、だから、必死に
なって飛ばしてるだけなんだ、って事、きっと、吾郎にぃ気付いてないよねぇ・・・・
なんて、溜息を漏らしていたりはするのだが。
「もうちょっとスピード、落とそうか?!」
少しぐらい、遅刻してもいいか・・・・なんて気持ちになったのは、自分の腰に回された
吾郎の手が、ぎゅっと強く制服を握り締めて、背中に感じた温もりは怖くて吾郎がしがみ
ついているせいなんだ、と気付いたせいで。
けれど、口ではそんな問いを上らせながら、本当はもっと飛ばして怖がらせたい、なんて
気持ちが見え隠れしている事にも気付いてはいるけれど。
きっと、拓にぃだったら、そうするんだろうな、とか。
わざと怖がらせるような事をして、もっと、自分を頼って来るように仕向けるんだろう、とか。
そうして、余計にしがみつく吾郎にぃを可愛い、とか思うんだよ・・・・なんて。
広にぃだった・・・・まず、吾郎にぃを後ろに乗せる、とか言う甘やかしなんか絶対に
しないだろうし。
慎吾だったら、どうするんだろう。系統は拓にぃにも広にぃにも似ていて。
露骨に構って嫌がられているかと思えば、妙に屈折してたりもするから・・・・
けど、案外、小心者だったりもするし、吾郎にぃを本気で怒らせたりは出来ないはずだから、
・・・・どうすんだろ。ちょっと、想像つかないかも。慎吾の場合、選択肢があり過ぎる
感じかな?
同じシチュエーションになった場合の兄弟達の反応をそれぞれ、シュミレーションして
みたりもして。
「いいよ、別に」
剛の予想に反して、さすがに多少は自分のせいで、こんな風に剛が焦っている事を感じて
いるらしい吾郎の遠慮がちな声に、思わず、ペダルを踏む速度をほんの少し加減してしまった
剛だった。
それでも、どうにか普段乗っている電車の時間に間に合う事が出来。
進行方向に向かって2席ずつ連なっている席の、丁度、並んで空いている席を運良く見つけ
二人揃って腰を下ろして。
「それじゃ寝るから・・・着いたら起こして」
いきなり。
本当にいきなり、そんな宣言をしたかと思うと、吾郎はコテン・・・・と剛の肩に頭を
凭れ掛けさせて来て。
・・・・・え?いきなり?そ、んな、いきなりな訳?
剛は僅かにうろたえて、窺うようにして、そっとそちらに視線を泳がせる。
窓から差し込む朝の陽射しが、睫を伏せた吾郎の横顔を照らして。
柔らかい白桃を思わせるような頬に金色の産毛が光る。
こんな至近距離から、こんな風にまじまじと吾郎の顔を見る事など、生まれて初めての
ような気がして。
規則的な電車の振動に身を委ね、軽く胸元を上下させて、どうやら本当に眠ってしまった
らしい吾郎のふわふわと踊る柔らかい髪が、時折、頬に触れて。
肩に感じる重みが心地良く、身体の半分側に伝わるぬくもりが温かい。
・・・・これって、俺も少しは吾郎にぃに頼られてるって事なのかな・・・・?
ふと、胸の中に湧いたそんな思いを抱き締めて、このまま、ずっと、駅につかなければ
いいのに、なんて、つい、乙女チックな思考を巡らせる自分が、そんなに嫌じゃない、と
感じている剛だった。
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