「おぉい、須磨!!ごろーちゃん、来てるぞぉ!!」
部活の最中、打ち込みの稽古をしていた剛の耳に、先輩の野太い声が刺さる。
見ると、体育館の入り口の隅の方で兄の吾郎が、小さくおいでおいでしていのが見えた。
慌ててそちらへ駆け寄り
「吾郎兄ぃ、どうしたの?こんなとこに顔出すなんて珍しいじゃん?!」
本当に驚いてつい、声も大きくなってしまう。
「剛さぁ、傘、持ってるかなぁ、と思って」
部活の最中にこんな風にして、ここへ顔を出して、剛の稽古を遮っている事を申し訳
ないと思っているのか、吾郎は微かな苦笑と共にそんなセリフを口にして。
「え?傘?傘だったら持ってるけど・・・ここにはないよ。部室のロッカーの中にカバンが
あって、そのカバンの中に入ってるんだけど・・・・」
そう言えば、今も体育館の屋根を叩く雨音が聞こえていた。
「あ、ほんと?助かったぁ。俺、傘、持ってなくて。濡れて帰るの嫌だしさぁ、どうしよう
かと思って。それでね、ふ、と思いついたんだよね。もしかしたら、剛だったら持ってる
かも知れないなぁ、って」
「あぁ、うん」
心底、ほっとしたように笑う吾郎の笑顔に、つい、思考回路の全てを持って行かれ掛けて
いた剛は、それでも、辛うじて吾郎のセリフが途切れた刹那、丁度いいタイミングで
ちゃんと頷く事が出来て、そんな自分にほんの少しだけほっとして。
「取って来ようか?ちょっと待っててくれる?」
そのまま、体育館を飛び出して行こうとする勢いの剛の腕を、吾郎が寸での所で捕まえた。
「って、そんな事したら、剛、帰りどうすんの?」
「え?俺?俺はちょっとぐらい濡れても平気だからさ。吾郎兄ぃ、濡れるの嫌なんでしょう?
だから、俺の傘、使ってよ」
「待ってるから。剛の部活が終わるまで、図書室で本でも読みながら待ってるからさ。
傘に一緒に入れてよ」
「・・・・え?」
言われている言葉の意味は理解出来ていると思う。
けれど。
・・・・・それって相合傘で帰るって事?!
兄弟の場合、それを相合傘とは呼ばないだろうが。
別に兄弟で、しかも男同士で、何もそうして帰る事に不思議も違和感もないはずなのに、
あ、いや、唯一の難点を言えば、1本の傘に高校生男子が二人で入るとなると、狭くて
肩が傘からはみ出して濡れる恐れは否めないだろう、と言う事はあっても。
にも関わらず、剛は何だか、途方もなく突拍子もない事を言われている気がして。
「え?何かマズイ?俺と一緒に帰ると何かマズイ事でもあるの?」
剛が一声発したきり、うんともすんとも返さないせいで、吾郎は少し困ったように小首を
傾げて、剛を覗き込むようにして、その視線を捕らえた。
自分よりも背が高い吾郎が、そんな風にして、やや、下の角から自分を覗き込んで来る
この仕草は吾郎の癖で、割合、頻繁に良くされるものの。
それでも、その都度、薄く、頬に熱が上るのを、剛はいつも自覚させられて、とても
焦って、酷く、落ち着かない気分にさせられてしまう。
そういう風に吾郎に見詰められるのは苦手だった。
「ま、拙くなんかないよ、全然!!だ、大丈夫だから。待ってて。そ、それじゃ、終わるまで
待ってて。お、俺、部活終わったらすぐ、図書室まで迎えに行くから!!」
だから、思わず声が上擦って、心持ち、どもってしまったりもして。
「ほんと?迷惑、とかじゃない?」
どこの世界に兄と一緒に帰る事を迷惑がる弟が居ると言うんだろう。
もし、居たとしたら、教えて欲しい。そんな下らない事まで考えて、剛はまた、慌てて
首を振った。
「迷惑な訳ないでしょ。愉しみにしてるからっ!!一緒に帰れるの、愉しみにしてからっ!!」
ここでその事を力説する事も、一般的に考えるとそれなりに、おかしい事ではあるけれど、
迷惑になんか思ったりしていない、と言う、ただ、その事だけを吾郎に伝えたいばかりの
剛は、そこまでは気が回らない。
「え?あ、ほんと?良かった。じゃ、待ってるね」
そうして、そんな剛の思いを知ってか知らずか、吾郎はニコリ、と微笑んでその場から
立ち去って行った。
「へぇぇぇぇぇ。弟と一緒に帰るのかぁ。ごろーちゃんも見かけに寄らず初心い事すんだなぁ。
彼女とか、彼女でなくたって、傘に入れてくれる女子なんかいっくらでも居るだろうになぁ。
って言うか、ごろーちゃんと一緒に帰りたがる女子なんか、いっくらでも居るだろうに。
何で、選りにも選って弟と帰る選択したのかねぇ」
吾郎と同学年の先輩が、今の兄弟のやり取りを見て、しきりに首を傾げる。
そう言われれば・・・傘に入れてくれる相手に、確かに事欠かない人だった事を、今更
思い出す剛だった。
そうして、部活が終わるのを、今か今かと待ち焦がれ、終わりの挨拶をするや否や、速攻で
着替えも終えて、ダッシュで図書室へ駆け込んだ剛は、そのガラン・・・・とした室内の
どこにも目的の人影がない事に唖然として。
一応、隅から隅まで、更には書庫まで入り込んで、そこに、やはり、その人の姿を見出す
事が出来なかった事実に愕然とする。
暫く、呆然となった後、ふと、気が変わってどこか、他の場所で時間を潰しているのかも
知れない、と思い立ち、学校内を走り回って、その姿を捜したけれど、結局、見つけられずに。
途方に暮れて、一人しょんぼり脱靴場に向かいながら、ハタ、と。
電話すればいいんじゃないか、と気がついて。
慌てて、携帯の短縮ボタンを押し、回線が繋がるのを待ちきれない思いで待っていた。
「あ?剛?」
耳慣れた声が小型の機械を通して耳に届く。
「うん。吾郎兄ぃ、今、どこ?」
すぐに今、居る所まで行くからさ!!そんな言葉を胸に問い掛けた剛の質問に吾郎は、
ほんの少し言い辛そうに声のトーンを落として。
「・・・・家」
一言、呟く。
「え?」
剛の思考回路がフリーズする。
「ごめんねぇ。拓兄ぃがさぁ車で迎えに来てくれるって電話くれてさぁ。拓兄ぃの車で
一足先に帰って来ちゃった。剛も待ってて、一緒に帰ろうって拓兄ぃにそう言ったんだけどね、
傘、持ってるんだったら心配ないだろ、って。待ってる暇なんかないって。夕飯の支度も
買い物にも行かないといけないから、って言われちゃって、それ以上、俺も何も言えなくてさ。
もしかして、探した?メール、入れとけば良かったかな?」
全く、全然、悪意の感じられないエンジェルボイスが心地良く鼓膜を刺激してはくれる
けれど。
全身脱力・・・・・
拓兄ぃが車で・・・・
拓兄ぃが車で・・・・
拓兄ぃが車で・・・・
そうだよねぇ、と。
溜息をついてノロノロと靴を履き替え、傘を広げて。
そこで・・・剛と一緒に帰るから、迎えに来てくれなくても大丈夫、とは言ってはくれない
吾郎を恨めしく思う自分は、きっと、心が狭いんだ、と・・・・
自虐的な心境にわざと自分を貶めて。
雨が降りしきる、どんよりと暗い空よりもまだ、剛の心は暗かった。
重い足を引き摺るようにして、自宅に辿り着き、玄関の登り框に腰を下ろして靴を脱いで
いる所へ、ドタドタと慌しい足音が響いて来て。
「つよぽん、お帰りぃ!!ねぇ、ねぇ、聞いてよっ!!拓兄ぃってば酷いんだよぉ!!」
いきなり、慎吾が背後から首っ玉にかじりついて来る。
「何だよっ!!いきなり!うるさいなぁ!!」
普段だったら、気にならないそんな慎吾の態度も、今は無性に腹立たしい気がして。
拓兄ぃに関して、とても、とても、面白くない気持ちを抱いている今の自分に更に
追い討ちを掛けるように拓兄ぃの話を聞かせてくれなくてもいいのに。
そうは思いはしても、それ以上には邪険にする事も出来なくて。
「俺がさぁ、びしょ濡れになって学校から帰って来たのね。それ、見てさ、拓兄ぃってばさ、
タオルを持って来てくれる気遣いもなく、大丈夫か、の一言さえなく、さ。『吾郎のやつ、
今朝、傘、持ってけっつったのに、置いたままじゃん』って、玄関に出しっぱなしになってた
吾郎ちゃんの傘見つけてさ。『ちょっと、学校まで行って来るわ』って、いきなり。車の
キー握って出て行っちゃったんだよぉ?!信じらんないでしょう?!吾郎ちゃんがまだ、
学校に居るかどうか、確かめもしないでさぁ、いきなり。吾郎ちゃんの事だからさぁ、
傘なんか持ってなくったって、どうとでもするに決まってるのに。女の子に入れてもらう、
とかさぁ。なのにね、拓兄ぃってばさぁ。ねぇ、ねぇ、酷いと思うでしょう?!おんなじ
兄弟なのにさぁ、何でこんなに扱いに差がある訳ぇ?!不公平だと思うでしょう?!」
首っ玉にかじりついたまま、慎吾は剛の身体ごと、身体を前後左右に揺さぶり捲くって
くれる。
何を今更・・・・
拓兄ぃの吾郎兄ぃ贔屓は何も昨日、今日、始まった事じゃない。
もう、ずっとずっと昔から。
少なくとも自分の記憶にある頃から既にそうだったんだから。
そうして、けれど、一つ納得して、少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
拓兄ぃにワザワザ迎えに来てもらった訳じゃなくて。
拓兄ぃが吾郎の意向を聞かずに、先に学校まで来てしまっていたんだ、と言う事。
それで、追い返す訳にも行かず、折角だから乗せてもらったんだという事実。
「あ?剛、帰ったの?おかえりぃ」
リビングから顔を覗かせた吾郎の優しい声が耳に届く。
まだ、離れたがらない慎吾の手を、それでもどうにか振り解いて、リビングに入り吾郎が
座っている向かいのソファに腰を下ろす。
「先に帰って来ちゃってほんとごめんねぇ。でもさ、良く考えてみたらさ、二人で一つの
傘だとさ、濡れちゃうでしょ、やっぱり肩とか。だからさ、拓兄ぃが迎えに来てくれて
良かったかなぁ、って。剛も濡れなくて済んだでしょ?」
「そう思うんだったら、今度からちゃんと傘、持ってけよ!折角、人が朝から天気予報
チェックして昼から雨が降るっつーから、わざわざ、玄関のすんげー目につく場所に
傘出して、それだけじゃ気付かねぇといけねぇから、ってワザワザ、持ってけよ、って
声まで掛けてやったのに」
「だってさぁ・・・朝、雨が降ってないのに、傘、持って出るのヤなんだもん。電車の
中で忘れそうな気、するしさぁ」
「そーだよなぁ。1年の間におめぇのために何本、傘、新調すんだかなぁ」
それまで、そんな兄弟達のやり取りなどまるで気にしていないような顔で新聞のテレビ欄を
チェックしていた正広が、新聞から顔を覗かせた。
「いっそ、100円均一の店で買やいいんだよ。キリがねぇんだからよぉ」
カカカカと、独特の笑いを添えて、そんな提案をしてくる正広に向かって
「ヤだよ、そんなの。100円の傘なんて絶対に持たないからね、俺!!」
唇を尖らせて、不満げな様子を隠そうとさえせず、吾郎は鋭い眼差しを投げ。
「まぁまぁ。幾ら何でも100円の傘は酷ぇんじゃねぇ?」
拓哉が少しだけ気の毒そうに唇に薄い笑みを纏う。
「おめぇは、すぅぐ、そうやって吾郎の事、甘やかすんだからよぉ」
「甘やかしてなんかねぇだろ?100円の傘は幾らなんでも酷ぇだろぉよ!!」
「じゃなくて。傘、忘れてるからガッコまで迎えに行ってやる、とかな。幼稚園児じゃ
あるめぇし。第一、雨に濡れたからって、溶けてなくなっちまう訳でもねぇんだからよぉ。
ほっとけっつーの!!」
余りに図星を指されて、不機嫌そうにむっと黙り込んだ拓哉は、そそくさと食器を
テーブルに並べ始め、夕食の支度を再開する。
「あ、でもさ、嬉しかったよ、俺。それにさ、今も言ったけど、剛の傘に入れてもらった
としたらさ、二人とも濡れちゃっただろうし。拓兄ぃのお陰で俺も剛も助かったんだからさ、
ねぇ、剛?」
食器を手際良くテーブルに並べる拓哉の顔を、少し下の角度から覗き込んで、吾郎が
熱心にそう言い募った後で、ちらり、と剛の方にも視線を寄越して。
「え?あ、・・・あぁ、うん。そう。そうだよ。拓兄ぃのお陰で濡れなくて済んだんだから」
吾郎の言ったセリフ、そのままに同じ言葉を繰り返して。
ほんとは、ほとんど、そんな事は思ってはいないけれど、正直な所。
でも、吾郎がそう言うから。
吾郎が自分にそう振るから仕方なく。
どうせ、自分はそういうポジションなんだから。
今更・・・・
今更、他のポジションに取って変わる、なんて事は、端から諦めてさえいる。
漏れそうになる溜息を飲み込んで
「俺、制服、着替えて来る」
低く言った剛のセリフは、あっさり、聞き流されてしまったらしかった。
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