こんな事は本当に珍しいけど。
とんとん拍子に収録が進んで、今日、予定していたシーン全て撮り終えてしまい。
そのまま、撤収になって。
寝る間も惜しんで、と言う表現が、決して誇張ではない程度に多忙を極める毎日の中で、
ぽっかりと出来た陽だまりのような時間。
そんな事は本当に珍しいから、何となく気分が少しハイになって。
ほんの少しだけ、いつもよりも回り道をして帰ってみようか、なんて、悪戯心が頭を
擡げた。
そうして、ふらり、と立ち寄った雑貨屋と呼ぶには相応しくない小洒落た小物類を扱う店で、
ちょっといい感じの陶器のマグを見つけて。
ほとんど白に近い、けれど、真っ白ではなくて、淡い薄紅色をほんの一滴、落としたような
淡い淡い色調のそれを、ほとんど衝動的に買い求めた。
いつか、まだ、明け切らない薄墨色の空をバックに二人で仰ぎ見た桜の花びらの初々しい
優しい色をそのカップに見つけた気がして。
真新しいカップに、最近、凝っているお気に入りの紅茶を静かに満たして、それを片手に、
読みかけていた小説を開いて。
ダイニングの硬質な木の背凭れに、軽く体重を預けて、右足だけを座面に引き上げ、
軽く胸の前で折るようにして曲げて、その膝の上に顎を預ける感じで。
紅茶の香りに促されるように、小説のページを繰っていた指先の動きがふ、と止まる。
・・・・・何、カッコつけてんだよ
笑いを含んだ、今、ここに居ない人の声が聞こえた気がして、まるで、思い出し笑いの
ように、口端に淡い笑みが浮かんだ。
外はいつしか、春特有の柔らかい雨が静かに窓を叩いていて、道理で、髪の具合が妙に
気になったはずだ、と、いつもと同じ納得を胸の中で繰り返して。
自分の置かれている余りに過酷な労働条件に関して、文句を言うとバチが当たる、と。
仕事のない事の方が怖いんだ、と、思い知っていて、尚、時に冷静さを欠いて、周囲に
当たったり、ヒスを起こしかけたりもするけれど。
それでも、こんな風にして、ほんの僅かな時間でも、自分を癒して満たす時間を作り出す
事が出来るのも、自分自身の気持ちの持ち方で違って来るはずだから。
逸れた気持ちをまた、小説に戻すように視線を落とした刹那、控え目なチャイムの鳴る
音が耳に届く。
突然の来訪者を確認した自分の表情が、明らかに綻んでいる事に気付きつつ、わざと
ゆっくりした歩調で玄関に向かい、ドアを開けて。
「急に降り出して来ちまって。暫く、雨宿りさせて」
悪びれる様子もなく、ちょっと首を傾げて、悪戯っ子のように微笑んだその顔に、良く似た
笑みを返して。
「どうぞ」
お客様をリビングにお通しして、お飲み物を用意するためにキッチンに立つ。
「紅茶でいいかな?コーヒーの方がいい?」
リビングにいるはずの彼に声を掛けたつもりが、不意にすぐ背中で声がして、正直、かなり
驚きはしたけれど。
「これ」
彼は俺が飲みかけていたマグを手にしていて。
「紅茶にする?」
「じゃなくて。これ、何か似てねぇ?ほら・・・いつだったか、一緒に行ったじゃん、花見。
あん時の桜の色に、何か似てねぇ?」
偶然の一致かも知れないけど、その一つのカップを見て、同じ事を思い出してくれた彼が
何だか嬉しい。
「やっぱり?俺もそう思った。でね、嬉しくなって買っちゃったんだよね、つい。衝動買い」
「俺のは?」
「は?」
「俺の分は?」
「え?」
彼の言っている意味は恐らく、理解出来ているだろうとは思う、自分でも。
そして、その理解が多分、間違っていないだろう事も。
ただ・・・・・
こういう場合、買う、かな?普通・・・・
「買ってないけど?」
「なんでだよ?」
「え?」
「なんで、買っとかねぇの?」
「いや・・・買う時に木村くんの事はさすがに思い出さなかったから。って言うか、
普通、買わないんじゃ・・・・」
「どこ?」
「え?」
「どこで買ったんだよ?」
「お店の名前なんか覚えてないよ」
「場所は?」
「それは・・・覚えてる、とは思うけど・・・・」
嫌な予感がした。
「行くぞ」
「は?」
「今から買いに行くっつってんの」
「あの・・・・」
「案内しろ」
・・・・そもそも、雨宿りのためにお見えになったのでは?
って・・・・彼が移動するために車を常時、使用している事は明らかだし、だから、元々、
雨宿りなんて必要がなかった事ぐらいは、彼が来訪した時から分かってたけど、一応。
そして、別にわざわざここを訪ねてくれた理由を敢えて、問い質すつもりも毛頭なかった
けど。
「あの、俺、悪いけどさぁ、さっき帰って来たばっかりで、やっと、ちょっと落ち着いた
とこで、こんな雨の中をもう1回、わざわざ出掛けて行くのは、凄い、嫌なんだけど」
子供の頃からの付き合いだから、ちゃんと意思表示させてもらおう。
嫌なものは嫌。
「・・・・あ?」
普段はやや下がり加減の眦が少し尖って、片眉が僅かに上がる。
・・・・・そんな顔して睨んだってダメだからね・・・・
彼の表情は見なかった振りで
「飲み物、淹れるよ。紅茶でいい?」
もう一度、その問いを投げる。
「案内しろ」
「コーヒーでいいかな?」
「・・・・ごろーちゃーん?もしかして、俺の声が聞こえてない、とか言いますぅ?」
いきなり、ぐいっと肩を掴まれて、後方斜め下の角度から顔を覗き込まれて。
木村くんの目が物語っている本気を、否応なく突きつけられる。
「分かったよっ!!行くよ!!行けばいいんでしょっ?!」
ほとんど自棄で、手にしていた紅茶の葉の入った缶を、ガン!!とテーブルの上に叩きつける
ような勢いで置いて。
「大体さ、今、来たばっかりなのに、どうして、そんな、また、すぐ、出掛けようとか
思えるんだよ、全く!!意味、分かんないよねっ?!」
春物の薄手のジャケットを引っ掴んで。ついでに車のキーと携帯も手にして。
もちろん、帽子を被る事も忘れない。
「んだよ、そんなに怒んなよ」
急に俺のご機嫌を取るように猫なで声なんか出したりするけど。
ふん、遅いって言うんだよ!
「俺が車出して、運転してくから!」
そう宣言したら、喉の奥で軽く引き攣った声を押し殺す気配を感じた。
マンションの駐車場は地下だから・・・・
乗る時に傘は必要なかった。
雨が降っている事は分かってたはずなのに、そして、今、助手席で余裕をぶちかましてる
顔なんかを見せながら、それでも、少し身を硬くしている彼が傘を持っていない事も承知
していたはずなのに・・・・
傘、持って出るの、忘れた・・・・
小さな個人店みたいなショップだから、当然、立駐なんかはなくて、車から店まではどう
考えても傘が必要で。
・・・・・・も1回戻るのぉ?面倒だなぁ・・・
自分のミスなので、あからさまにそんなセリフは口には出来なくて、思わず、眉間に皺が
寄った。
「んだよ、ここ?」
俺が車を駐車場に入れて止めたからだろう、助手席から彼が漸く、そんな問いを発して。
さすがに、どうして俺が降りようとしないのか訝っている空気がありありと伝わって来る。
「あっ?!」
その時、天の助けとばかりにふと閃いたマネのセリフ。
・・・・・傘、置いときますね、いつ、降って来るかも分かりませんから
ちょっと身を乗り出して、後部座席の足元を確認したら、傘が1本転がっていた。
・・・・・助かったぁ・・・
その傘を目一杯手を伸ばして、どうにか取って、助手席の彼に手渡し
「1本しかないからさ、俺、ここで待ってる」
そう告げた俺の腕を彼はがしっと掴んで。
「店までちょっとじゃん。折角、ここまで来たんだから、一緒に行こうぜ」
降り出した時には、春らしい優しい雨だと思っていたのに、車を出した頃から雨足は強く
なり始め、今では、アスファルトを叩く雨が白い水煙を上げているほどに、雨足はかなり
強くなってしまっていて。
一本の傘に大の大人が二人で入ったりなんかしたら、絶対に濡れる。
「やだよ。ここまでちゃんと案内したんだからさ、行って来てよ。買っておいでよ。俺、
待ってるから」
「一緒に行こうぜ」
「濡れるから嫌だよ」
「一緒に行こうぜ」
「こんなとこで木村くんと相合傘なんかして、ゴシップですっぱ抜かれたりすんの、
ヤだもん。何、書かれるか分かんないし」
「そう言えばお前、月イチゴローで随分、思わせ振りなセリフ吐いてたな。慎吾も面白がって
煽るしよ。そこへ持って来て俺と1個の傘なんかに入ってたら、一発ってか?」
「そこまで分かってるんだったら・・・・」
「いいんじゃねぇの?言いたいヤツには言わしときゃ。別にやましい事なんかなぁんも
ねぇんだし」
「そりゃそうだけどね」
「だろ?」
確信に満ちた木村くんの眼差しに捉えられて、うっかり同意を唱えてしまった自分のバカさ
加減が呪わしい。
「って事で」
さっさと助手席のドアを開けて駐車場に降り立った木村くんは、そのまま、ぐるっと車の
前を巡って運転席のドアを開け、1本しかない傘をこっちに差し掛けてくれる。
「濡れるだろうが。さっさとしろよ」
もたもたとシートベルトを外していると、すかさず木村くんの叱責が飛んで。いきなり
腕を掴み上げられる。
「第一、ほんの数メートルだぞ、店まで。こんなに短い距離でフライデーとかされてみ?
その方が感心すっから、俺は」
そう。ほんの数メートル。こんなに雨足が強くなければ、木村くんなら走って行ってしまい
そうな距離で。
「お前ぇ。もうちょっとくっつかねぇと濡れんぞ」
相変わらず俺の腕を掴んだままの木村くんが、その手を更にぐいっと自分の方に引く。
「大体、いっつも、ほとんどくっつくみてぇに歩いてんのに、なんで、傘が1本あるだけで
そんな、緊張感、漂わす訳?」
改めてそう問われて、確かに・・・・と妙に納得させられてしまった。
木村くんとプライベートで出掛ける事は、そんなにはしょっちゅうって訳でなくても
それなりにあるし、そういう時、良く木村くんはネタにして笑うけど、どうやら、自分は
結構、木村くんにくっついて歩いているらしいし。
って、言うかくっついて歩いてないと、はぐれそうだったり、他の人にぶつかったりしそうに
なったりもするし。
要するに、くっついて歩いている方が危険が少ないんだよね。
そんな事、木村くんに知られようもんなら「俺を盾にするな」とか言って、また、怒られそう
だけど。
上品なベルの音に迎えられて店内に足を踏み入れ、目が合った店員さんのにこやかな営業
スマイルの向こうに、微かな驚きが見え隠れする。
いつ、さっき買い物を済ませて帰ったはずの人間がもう1度訪れれば、誰だってあれ?
ぐらいの事は思うだろうし。
そして、入り口で傘を畳んで俺のすぐ後ろに並んだ人物を認めて、益々、驚きの表情は
濃くなる。
ま、仕方ない事だろうとは思うけど。二人で連れ立って歩けば、必ず、強かれ弱かれ、
多かれ少なかれ、そんな視線は感じるし。
そういう驚きがちょっとぐらいは楽しいと思える程度の余裕も出て来たけど、近頃は
さすがに。
店の中を適当に散策した後、目的の買い物を済ませて。
もう1度、家に戻って、漸く、人心地つく。
二人分の紅茶を温めたカップに注いで。
丁度、最近、親しい人からもらった桜の花の砂糖漬けをお茶うけに添える。
「へぇ?こんなん、あんだ?」
「うん。もらいものだけど」
紅茶の深くてけれど、優しい香りと、桜の花の塩漬けの仄かな苦味を帯びた複雑な味わいを
堪能して。
「今年は忙しくてお花見には行けそうにないからさ、せめて、気分だけでもお花見」
「・・・・だな」
外は激しい雨に煙って、春には似つかわしくない寒さに凍えていたりもするけれど。
忙しい俺のささやかなお花見を、こうして、ちょっとした偶然にも似た巡り合わせで、また、
彼と一緒に。
「そんじゃな。お茶、ごちそうさん」
まだ、雨は降っていたけれど、結局、帰って行く彼を玄関まで見送って。
「あ、あれ、ここに置いといて。俺、来た時、また、使うから」
リビングをちらっと指して、そう言い残した彼に、俺はやっと、そのカップの存在を
思い出して。
綺麗に洗って、カップボードに二つ並んだそれを、見るとはなしに見て・・・・
これって、ペアカップとは・・・言わない、よね・・・・
誰に聞くともなしに、俺は心の中でそう呟いていた。
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