『 優しい歌声 』
果樹園の仕事を終えて家に帰ったクリフ。
「ただいま〜」
玄関を開けて声を掛けるが、返って来るはずの返事が返って来ない。
出掛けてる・・・・・はずはないか。と思い直す。
玄関の鍵は開いていたのだから。
ちょっと、無用心かも・・・・・
確かに平穏無事な毎日を過ごせていて、物騒なこととは無縁のように
思えるこの町だから、家に居るときには誰も鍵を掛けないけれど、
気付かないうちに、決して、善良なだけでないモノが入り込んだりしたら・・・・・・
突然、襲い掛かる締め付けられるような胸の痛み。
この町に着いて間もない頃は、そのあまりにも安穏とした、ゆるゆるとした、
どこか普通一般の世界とは掛け離れた時間の流れに、なかなか馴染めず、
馴染めない事で、ただでさえ傷ついて落ち込んでいた自分の状態に拍車が
掛かるようで、今、思い出しても、暗い気分になって来る。
この町はそれまで自分が知っていたいた世界とは、あまりにも違い過ぎて。
いつもと同じように家に帰って、いつもとは全く違う光景が眼前に広がる
恐怖を、ボクは、確かに知っていた。
押さえようとする程に胸を打つ鼓動は、早さと激しさを増し、全身が
心臓になってしまったかのような錯覚に苛(さいな)まれながら、ボクは
家中のドアを次々に開け放つ。
そして・・・・・・
あるドアの前でボクは、ふ、と動きを止め・・・・・
大きく全身で息をついた。
ドアの向こうから聞こえて来る、楽しげな歌声。
聞いてるボクまで、ちょっと楽しくなって来そうな・・・・・
あの頃も・・・・・・
目の前のドアが透けて、その向こうに見知った世界がボンヤリと佇む。
家に帰って、まず、その後ろ姿を見て、安心する。
ただ、楽しくて、口から勝手に歌がついて出る。
そんなハミング。
ボクはそれを聞いて、また、安心して、遊びに出掛ける。
他愛ないけれど、幸せで、満ち足りていた日々。
けれど、決して、永遠に続くことはなく・・・・・・
ボクはゆっくりとドアを開ける。
「ただいま」
歌声が止み、振り返ってボクを見止めた彼女の顔は、なぜか、酷く、悲しげで。
ボクは驚く。
楽しげに歌っていたと思っていたのに、そうじゃなかったのだろうか、と。
彼女は黙ったままボクに近付き、そっと、ボクの瞼の手を伸ばす。
反射的に閉じた瞼の端から、一筋、生暖かいものが伝った。
あぁ・・・・
悲しげな顔をしていたのは・・・・
今にも泣き出しそうな顔をしていたのは・・・・・
ボク、だったのか・・・・・
彼女はその両腕でそっと、ボクの頭を胸をかき抱いて、静かに、優しく、
歌い始めた。
優しい歌声と、穏やかな心臓の鼓動と、温かい人肌のぬくもりと。
ただ、そこに居るだけで満たされる気持ちと。
愛しくて。
温かくて。
優しくて。
嬉しくて。
幸福で。
彼女がボクに教えてくれたもの。
彼女がボクに与えてくれたもの。
いつか、失ってしまうかも知れない恐怖に怯えて暮らすよりも、今、
こうして満ち足りている幸せを噛み締めて暮らそう。
永遠、なんて、この世には存在しなくて、無限に続くこと、なんて、
あり得なくて・・・・・
必ず、終わりがあり、限りがあるのだから・・・・
その瞬間が訪れる、その一瞬まで・・・・・
今を。
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