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天気は素晴らしく快晴。梅雨の中休み、というやつだろうか。
気温、湿度共に申し分のない爽やかな1日の始まりだ。
せっかくのオールオフ、いつもなら迷わず外へ出掛けてしまうところ。
あぁ、それなのに
俺は今、マンションの扉の前に立っていた。
そもそも何故ここにいるかと言うと、話は数時間前にさかのぼる。
『もしもし木村君!?お願いすぐ来て!』
携帯の着信音に起こされて、手探りで通話ボタンを押す。
まだ夢の中に半身を置いてきたままだった俺の頭に響いてきた第一声がこれだ。
「・・・誰だよ。」
登録された電話番号の表示を見るのもかったるい。目も半開きだ。
エアコンをつけっぱなしで眠ってしまったせいか、のどが痛い。
しかしそんなことはお構いなしに、電話の向こうの相手は声のトーンを少し上げた。
『え!?なんで分かんないの、僕だって!』
僕・・・・・?
目覚めに聞くのはそう悪くない、優しい声。
そのくせ言っていることはちょっと高慢だったりする。
こんな喋り方をする‘僕’は・・・・・あいつか。
「吾郎?」
『うん。おはよう。』
「おう、オハヨー・・・。電話掛けてくるなんて珍しいな。」
『ねぇ、今日って木村君もオフでしょ?今すぐうちに来て!』
「いや、確かにオフだけど・・・どうしたんだよ。」
『あーもう!来たら分かるから!とにかく大変なの!』
「はぁ!?なんだよそれ。」
『お願いだから、来て!』
「おい吾郎っ・・・」
ブチッ
ツーツーツー・・・
一方的に会話は終了した。
「わけわかんねぇ・・・。」
呼ばれた理由さえ分からないまま咳を1つすると、それでも一応ベッドから跳ね起きた。
適当にシャツを羽織り、サンダルを引っ掛けて、
現在吾郎の家の前までやってきた、と言うわけだ。
エントランスでオートロックを解除してもらう時も、吾郎の声は妙に動揺していた。
何があったか知らねぇけど、これでドライヤーが壊れたとかそんなんだったらマジで怒るぞ。
そう思いながらインターホンのボタンに指が触れるか触れないかのその瞬間、
扉がいきなり開き、見慣れすぎたくせっ毛のかたまりが飛び出してきた。
吾郎はその真っ黒な目に俺の顔を映すと、
「よかったぁ・・・木村君来てくれて・・・。」
ふにゃ、という擬音がつきそうなくらい表情が安堵の色に変わる。
「あんな風に呼ばれたらそりゃ来ないわけにはいかねぇだろ。」
言葉を返しながらも、俺は普段と変わらないはずのこいつに、何か強烈な違和感を覚えた。
その違和感の正体が何なのか分からないまま、俺は吾郎を眺めてみる。
ほとんど同じ身長なのに、どういうわけだか俺より若干小さく見える背丈はいつも通り。
マイナーチェンジを繰り返してはいるらしいが、俺から見て左目にかかっている前髪だっていつも通り。
ブラックデニムにコットンシャツ、という格好もまさに稲垣吾郎。
ひょっこりと飛び出したアイスグレイの耳もいつも通り・・・・・・・・
いつも通り・・・・・・・・
いつも・・・・
「!!!!???」
俺は思わず声を上げた。
吾郎の好き勝手に波打つ髪の間から見えたのは、
「猫耳!?」
そう、猫耳だった。
前にこの家に入ったのは随分前だったから、部屋の内装はだいぶ変わっている。
玄関に足を踏み入れた途端に狛犬と目が合ったのにはさすがにちょっと驚いた。
しかし今はそんな些細な変化はどうでもいいんだ。
問題なのはこいつの猫耳。
「なにお前その猫耳。ギャグ?いくらなんでもちょっとどうかとー。」
リビングに通されて開口一番、俺はそう言った。
「わざわざギャグで僕が猫耳つけると思う?」
いや、あんまり思いたくねぇけど。
呆れたように吾郎は言葉を返して、フローリングの床にぺたりと座り込む。
俺もそれに倣って向かい側に腰を下ろした。
「何言ってんだよ、もう分かったからそれ取れって。」
手を伸ばして猫耳に触れる。
ほんのり温かく、作り物には到底出せない掌に吸い付くようなしっとりとした感触。
「は!?」
そのまま指を伸ばしていくが、カチューシャの部分が見つかるわけでもなく、
地肌に爪の先があたった。
「・・・マジですか・・・。」
一気に様々な思いが脳裏を駆け巡る。
ありえないとかどうするんだとか自分でも分からないくらい。
落ち着け木村拓哉。大人だろ。
「あのさ、もう離してって。耳、痛い。」
吾郎の声と、長い指がやんわりと手の甲を包み込む感覚で我に返った。
俺は腕を引っ込めて、右手で顔を覆う。
「なんでそんなことになったんだよ・・。」
当然の質問を吾郎へ向けた。
「それがねぇ・・・・」
吾郎の話によれば、
昨夜、愛しいお嬢さん達を見て思ったそうだ。
「ちゃんと話しができたらいいなぁ」と。
そうすれば、もっと気持ちがわかるのに。
「一日だけでも、僕が猫になれたら。」
そう思って、本日太陽が昇ってみると―
「その猫耳が。」
「この猫耳が。」
吾郎は自分で耳を掴むと軽く上に引っ張った。
「無理があるな。」
「そうだけど・・・。」
しゅん、と肩を落とすと、その動きに合わせるように耳が下を向く。
「なっちゃったものは仕方ないじゃんか。」
確かにその通りだ。
「・・・まぁ、全部が猫にならなかっただけマシじゃねぇ?」
「しかもなんでこんな微妙な・・・・・。」
語尾は掠れてよく聞き取れなかった。
「いや、けどよ、もし完全に猫だったらこんな風に誰か呼ぶなんてできないだろ。」
それに実際のところ、ちょっと、いやかなり似合ってるし。
その言葉はさすがに胸奥へ呑み込んだ。
「お前さ、俺呼んでどうするつもりだったんだよ。」
俺がやったわけじゃないから、俺にはどうすることもできないし、
現に今だってこうやってただ見ているだけだ。
「あぁ・・・そういえばそうだねぇ・・・。」
今更気づいたのか。
心の中でツッコミを入れ、吾郎の言葉に再度耳を貸す。
「だって、木村君ならさ、なんとかしてくれるような気がしたんだよ。
で、気が付いたらもう電話してた。」
まったくこいつは
三十路のくせに
猫になりたいとか言っちゃうくせに
なんでこんなことが言えるんだか。
「バカじゃねぇ・・・。」
言葉とは反対に、声だけは嬉しさが隠せなかった。
と、その‘愛しいお嬢さん達’の片割れが音も無く吾郎の横へやってくる。
膝の上へ登り、尻尾をゆらゆら動かす。
さも当然だと言うように。
アメリカンショートヘアーのくっきりした目が吾郎を見上げて、
「にゃぁ」
一声鳴いた。
「ん?うん、そうだね。」
「なに、ほんとに分かんの?」
それは結構、いいかもしれない。
犬語翻訳機より、猫語翻訳機の方が難しいらしいから、
それだけ猫の言葉は判りづらいのだろう。
「なんだって?そいつ。」
「木村君のことはあんまり好きになれないんだって。」
「マジで。拓哉ショック。」
「嘘だよ。」
吾郎の表情は、悪戯が成功した子供そのものだった。
「ごめんね、呼び出しちゃって。」
ふいに掛けられた言葉に思わず吾郎の方へ向き直る。しかし吾郎は
視線を合わせるでもなく、のんびりした口調で続けた。
「起きたときはやっぱり凄く動揺してさ、とにかく来てもらいたかったんだけど、
なんかさ、慣れてみるといいかなー、なんて。
‘1日だけでも’って言ったんだもん。明日には戻るって。」
吾郎らしいと言えばそれまでだが、あまりに楽天的な物言いに、俺の口をついて出た
言葉は少々説教じみていた。
「っつーか、いいかなー、じゃねえだろ。お前そりゃ今日はオフだからいいかもしれねーけど、
明日もしも元に戻らなかったらどうすんだよ!?収録あるだろ?」
「明日のことは明日考えるよ。」
そう言って吾郎はごろんっと横になると、俺からは背中しか見えなくなった。
なんて奴だ。
人を呼び出しといてそれかよ。
吾郎は椅子の上で目を細めていたロシアンブルーを呼び寄せる。
折角落ち着いていた場所が無くなり、アメリカンショートヘアーがもう一度鳴く。
「大丈夫だよ。なんとかなるから。」
今の言葉は俺に対してのものなのか、それとも自分へかける暗示の独り言。
背中を丸めた吾郎の格好は、本当に猫のようだった。
気ままなアイスグレイの猫。
うわ、これってまるっきり吾郎の‘あの’文章じゃん。
そう思うとなんだか可笑しかった。
「はぁ・・・・・・・。」
大きく息を吐き出した。
ソファーの上からひとつクッションをとると、それに頭をのせる。
パウダービーズに段々後頭部が沈んでいく。
視界に入ってくるのはやたらと大きな窓と中途半端に閉められたカーテン。
床に寝転がったアイスグレイの猫耳の吾郎。
こいつの言う通り。
頭をかかえていても仕方が無い。
今日1日くらい、この猫と過ごしてみようじゃないか。
明日のことは明日にしよう。
Donner sa langue au chat. (もうお手上げだ)
カーテンの隙間から覗く空色の眩しさに、とりあえず俺は目を閉じた。
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